戦死した父が戦地から家族に送った180通の手紙。そこには、生まれてすぐに出征したためほとんど一緒に暮らせなかった息子への愛がつづられていた。一方で“黒塗り”の部分もあり当時の検閲の恐怖が伝わってくる。
息子が生まれてすぐに出征そして戦死
「お父さんって呼んだことがない」と語る男性は、伊万里市に住む渡邊忠篤さん(85)。

太平洋戦争中の1944年、日本軍が現在のインド北東部の攻略を目指して行ったインパール作戦で忠篤さんの父親、八郎さんは戦死した。

当時、忠篤さんは3歳だった。父の八郎さんは忠篤さんが生まれてすぐに戦地に赴いた。このため忠篤さんは父親の記憶がほとんどないという。

渡邊忠篤さん:
「(父とは)全然会ってない。親父との思い出は全くない」
父が戦死したビルマへ 遺骨を収集
父の記憶がほとんどないまま生きてきた渡邊さんは30代になった時にある決断をする。
渡邊忠篤さん:
親父が33歳で亡くなった。自分が同じ年齢くらいになってから親父の遺骨収集をしてみようと思った

はじめに向かったのは太平洋戦争の激戦地グアム、サイパン、テニアン。その3年後には、父が亡くなったビルマにも足を運んだ。
渡邊さんは現地で見た光景に衝撃を受けたという。

渡邊忠篤さん:
最初は恐ろしかった。こんなに遺骨があるのかとびっくりするくらいに遺骨があった。最終的には班で1万3000集めた

渡邊さんは、父が生きた証だけでも残したいと思い自分が見た光景をカメラに収めた。

渡邊忠篤さん:
大体この辺だろうというところまで行って、ここでこういう風に死んだのかなと…感動して涙ぽろぽろ。しばらくは動けなかった
父が戦地から送った180通の手紙
遺骨収集で収めた現地の写真のほかに、もう1つ大切に保管されているものがある。
それは、父が戦地から家族に宛てて書いた約180通の手紙。

手紙はもともと、渡邊さんの母親、シゲノさんの形見。母の棺に入れられる予定だったが、渡邊さんの妻、初枝さんの考えで残すことにしたという。
妻・初枝さん:
燃やしてしまったら子どもや孫には何もないから

どの手紙も、小さな文字でびっしりと埋め尽くされていて、その多くは息子の忠篤さんのことがつづられている。

「きょうは二十五円家に送金」
「忠篤に何か買ってやってください」
「七月七日は忠篤の誕生日。心ばかりのお祝いをします」

渡邊さんはこの日、ほぼ初めて手紙にじっくりと目を通した。
渡邊忠篤さん:
感激。よっぽど可愛かった、目に入れても痛くない感じだったろうか。1回は会いたかった
“黒塗り”も…検閲の恐怖を物語る
一方、手紙には同じ地区の仲間の死など父の苦しい心境もつづられていた。

「前田君の死」
「神を詣り崇拝する」

当時、軍事機密・作戦や戦況などが漏れないよう手紙の中身は検閲されていた。手紙には“黒塗り”の部分もあり検閲の恐怖を物語っている。

悲惨な戦争を二度と繰り返さないよう渡邊さんは今年8月、語り部として活動を始めた。これからは若い世代に向けた発信方法を模索するという。

渡邊忠篤さん:
終戦81年。もうじわじわ風化している。若い人にどうして伝えるかをいま模索している。とにかく若い人につないでいかないといけない

