2026年で戦後81年。「語り継ぐ」と題してシリーズの2回目。太平洋戦争の末期、沖縄に向かっていた将兵の輸送船が鹿児島の徳之島沖でアメリカ軍の魚雷攻撃を受けて沈没し約3700人が犠牲になりました。その輸送船に乗っていた父を亡くし語り部活動を続ける男性が東かがわ市にいます。89歳になった今も父を見送った記憶が鮮明に残っているという男性の思いを聞きました。

東かがわ市に住む桑島正道さん。御年89歳ながら現在、週に4回ほどシニア世代のソフトバレーサークルに通っています。桑島さんは元中学校教師。サークルには教え子も在籍しています。

(桑島さんの教え子 有馬敏則さん)
「1メートルくらいの定規を常に持って、生徒が居眠りしていたら黒板をたたいていた。「人間最後まで諦めるな」としょっちゅうクラブ活動などで言っていた」

(桑島正道さん)
「ソフトバレーはいつでも誰でもどこでもできる最高のスポーツだと思う。ニコニコとそんな人生が送れたらいい」

笑顔で話す桑島さん。しかし、その過去には戦争が暗い影を落としていました。

1937年、兵庫県西宮市に生まれた桑島さん。時代は太平洋戦争の真っただ中、貧しい暮らしを余儀なくされていました。

小学1年の時の通信簿を見せてもらうと。

(桑島正道さん)
「体重が減っていく。4月が18.5キロ、7月が18.4キロ。9月になると18.2キロになる。伸び盛りの1年生の体重がどんどん減っていく。学校で給食を食べていても空襲警報が鳴ったら「もうやめて、はい帰れ」って。そんな時代」

桑島さんが小学2年生だった1944年、日本が劣勢に立たされる中、桑島さんの父・正義さんが沖縄の増援部隊の一員として招集されます。

(桑島正道さん)
「戦争に出ていくということは、当時は名誉なことだった。近所の人も含めてみんなが日の丸を振って送ってくれる。万歳。万歳言うて。だから雰囲気的にも悲しいとか、つらいという気持ちは毛頭なかった」
「親父が列車から身を乗り出して汽車が見えなくなるまで手を振っていた。その姿を私はずっと見ていた。夢にも出てくるがあの姿は今でも印象に残っている。最後に見た親父の姿やから」

正義さんが乗ったのは民間の輸送船「富山丸」。乗船した将兵は約4000人。香川県からも正義さんを含む約400人が招集されていました。

しかし、出航から2日後の1944年6月29日、鹿児島の徳之島沖を航行中、アメリカ軍の3発の魚雷攻撃を受け沈没。正義さんを含め約3700人が命を落としました。富山丸に乗っていたのは、兵力不足から動員された妻や子がいる「父親」が多く、桑島さんたちのような遺児を多く生み出しました。

(桑島正道さん)
「電話がかかってきて、済んだらおふくろが部屋の押し入れに入ってわーっと泣き出した。何が起こっているのか分からなかった。おふくろもつらかったし、じいさんばあさんもつらかったと思うが、私は「死んだか、よし敵を討ってやる」という気持ちだった。軍国少年の気持ちかな」

約1カ月後、親元を離れ現在のさぬき市大川町の祖父母の自宅へ単身疎開。約1年後の1945年8月15日、終戦を迎えました。

桑島さんは定年退職まで38年、教師の道を歩み、退職後は東かがわ市の教育長も務めました。県内各地の学校で講演したり、香川県富山丸遺族会の会長を務めるなど平和への願いを発信し続けています。

講演の資料には、戦争を取り巻く様々な出来事や国民の生活について書かれています。桑島さんは、子供たちに戦争の全体像を知ってもらうことを心掛けています。

(桑島正道さん)
「これを見なければ戦争を把握できないから私はきょうここを話すけれど、皆さんで本で調べたりして勉強してくれたらいいと話している」

(児童・生徒からの感想文)

戦後81年、日常の平穏が当たり前になる一方で、世界で今なお続く紛争、緊張の激化は平和のもろさを突きつけています。

(桑島正道さん)
「(平和が)当たり前になっているが、この当たり前という気持ちでいいのか。心のどこかには、それは忘れてはいけない、平和に溺れすぎたのではちょっと危ないかなと思ったりもします」

岡山放送
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