2026年で戦後81年。「語り継ぐ」と題してシリーズでお伝えします。1回目は、記憶のない母親の思いを胸に語り部として活動する倉敷市の88歳の女性に平和への思いを聞きました。

大きなリボンに赤十字のマークがついた帽子。記憶のない母親を感じられる唯一の形見です。

(諏訪妙子さん)
「母と触れ合った記憶がないので…最期に母が身に付けたものが私にとっては母親と同じものです」

倉敷市に住む諏訪妙子さん(88)。諏訪さんの母親・としさんは、日本赤十字社の看護婦でした。

としさんが戦地へ向かったのは1939年。日中戦争のさなか、としさんの元に召集状、「赤紙」が届きました。当時、諏訪さんは、まだ1歳でした。

(諏訪妙子さん)
「この子を残して戦争に行かなければいけない…というのは思ったと思いますけれど、日本赤十字社の看護婦はそういう約束事(応召義務)があったということですね」

としさんが派遣されたのは負傷した兵士が運ばれる中国・江西省の病院。寝る間を惜しんで看病にあたる一方で、諏訪さんの父親に手紙を送り続けていました。その内容をまとめた一冊の本。そこには幼い諏訪さんを心配するとしさんの思いがつづられていました。

(諏訪妙子さん)
「「妙子は私のことをまだ覚えていますか」とか「妙子をお願いします」という言葉が最後には必ずあった。戦争が終わって帰りたいという気持ちがあったのかもしれませんね」

従軍してからわずか2カ月。としさんは、マラリアと脚気にかかり、28歳の若さで帰らぬ人となりました。諏訪さんに、母親の記憶はありません。しかし、看護婦だった母の存在は、いつも心の中にあったと言います。

(諏訪妙子さん)
「母への憧れがあって、小さい時から「妙子ちゃん大きくなったら何になるの」と聞かれると「看護婦さん」と必ず言っていた。だから母のような日赤の看護婦になりたいという願望があった」

としさんの死後、諏訪さんの父親は再婚し、妹と弟が生まれました。しかし、終戦間際、生活が一変します。父、弟、義理の母が相次いで病気で亡くなったのです。追い打ちをかけたのが、当時の連島町などを襲った水島空襲。その光景が諏訪さんの心に戦争の恐ろしさを深く刻みました。

(諏訪妙子さん)
「上から戦闘機でバリバリバリと爆弾が落ちてきているのがこの家から見えた。今度は倉敷だ、とみんな言っていた。戦争が終わってしばらく、B29の爆音が怖かったです。よく覚えています」

戦後、諏訪さんと妹は祖母が働きながら、育ててくれました。憧れていた看護婦の道は、経済的な理由から諦めざるを得ませんでした。そのとき初めて、両親のいない現実を痛切に感じたといいます。

(諏訪妙子さん)
「高等学校を出ないと(看護師養成所に)入れないが、高等学校へ行くことができない。妹がいるし。強気な子供だったが、高梁川の堤防の上から初めて「お父さん、お母さん」と泣きながら叫んだのを覚えています」

戦後81年、人口の9割が戦後生まれと言われています。今後、戦争の記憶をどう語り継いでいくのか。岡山県遺族連盟は定期的に講話会を開くなど語り部の育成に力を入れていて、この2年で11人から37人に増えました。諏訪さんも2026年5月から語り部として活動を始めました。

(諏訪妙子さん)
「今私たちが語らないと戦争を知っている人が少なくなる。「今だ」と思った」

諏訪さんは中学卒業後に就職、その後、結婚し、2人の息子を育てました。世界各地で今もなお戦争が続く中、平和の大切さを改めて訴えます。

(諏訪妙子さん)
「絶対戦争はしてはいけない。子供や孫、これから先の生まれてくる子供たち、平和で助け合っていける世の中になってほしい。戦争だけはしてはいけませんね」生きる。二度と従軍看護婦という言葉を使わない世界になってほしい。」

絶対に戦争はしてはならない。戦争で両親と夢を失いながらも力強く生きてきた諏訪さんの願いです。

岡山放送
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