2026年で戦後81年。記録が少ないろう者の空襲の記憶を取材しました。

Q:岡山空襲の時も暑かったですか?
(小野晶子さん)
「(手話で)いや、涼しかった」

高梁市に住む小野晶子さん(91)。生後10カ月の時に中耳炎にかかり、聴力を失いました。10歳の時に岡山市の自宅で岡山空襲に遭いました。

・・・岡山空襲の時の話を教えてください。
(小野晶子さん)
「とてもきれいだった。ひとつではなくどんどん落とすので、まるで花火みたいにとてもきれいに見えた。もっと見たいと思った」

Q:怖くはなかったですか?
(小野晶子さん)
「聞こえないので怖いと思わなかった。周りの人は怖くて耳をふさいでいたが、私は平気で外をのぞいていた」

1945年6月29日未明。アメリカ軍の爆撃機が岡山市中心部に約9万5000発の焼夷弾を投下。市街地の約6割が焼失し、少なくとも1737人が命を落としました。

(小野晶子さん)
「みんな押し黙っていたり目を押さえたり。暗いから話はできない。押し黙っていた」

音がない空襲。空襲警報の音。爆撃の音。逃げ惑う人の叫び声。音がない空襲は恐怖心を奪い、危険を察知する機会さえ与えない。小野さんは翌朝変わり果てた岡山の街を目の当たりにして初めて命の危険が身近に迫っていたことを知ります。

(小野晶子さん)
「空襲が終わって夜が明けて、周りを見ると一面真っ黒で、逃げ遅れた人たちがあちこちに黒い状態で亡くなっていた。赤ちゃんを抱いている人など色々な人が横たわっていて気持ちが悪かった」

小野さんは当時、岡山市内にあった盲唖(もうあ)学校に自宅から歩いて通っていました。

・・・ここが学校。家はどこ?
(小野晶子さん)
「学校はここ。家はここ」
「ほとんど毎日防空壕を掘ったので楽しかったことはなかった。何のためかはわからなかったが実際に見て(防空壕だと)わかった」

空襲警報が鳴った時の避難訓練もあったそうです。

(小野晶子さん)
「逃げる時は先生が石を投げて、それが当たったら逃げるという合図で訓練した。教室にいる時は棒でつつかれて逃げる訓練をした」

情報を十分に得られない聞こえない人も容赦なく襲った戦争。目に焼き付いたその光景は81年たった今でも鮮明に覚えています。

(小野晶子さん)
「テレビで戦争の様子を見ると苦しくなる。世界のみんなが一緒に仲良く暮らせたらいいと思う」

聴覚障がい者が戦争をどう生き抜いたのか、それを知る体験談は余り残されていません。埋もれたまま消えてしまう記憶を残そうと、戦争を経験したろう者を尋ね1冊の本にまとめた人がいます。

「原爆。あれはいけん。今でも気持ち悪いのう。」
「耳が聞こえん上に顔や姿もこんなになってしもうて、死んでしまいたいと、何度も何度も思い、生き続けていくことが苦しかったんです。」
(※ 仲川文江著「生きて愛して」より引用)

1945年8月6日、広島県に投下された原爆で被害にあったろう者の言葉です。作者の仲川文江さんは15人のろう者の話を手話で聞き取り文章として残しました。仲川さんは本の中でこうつづっています。

「ろうあ者の生きて来た歴史の側面を残すことに連なるなら。今は書き残しておく大切さを痛感しています。」

なぜ、障がいのある人たちの戦争体験は記録に残りにくかったのでしょうか。

自身もろう者であり、ろう者や難聴者の生き方や考え方を調査、研究する筑波技術大学の大杉豊教授に聞きました。

Q:ろう者の戦争体験が少ないのはなぜですか?
(筑波技術大学 大杉豊教授)
「戦争を体験した人の中にろう者がいるという意識がなかった。ろう者だけではなく視覚障がい者の記録もあまりないと思う」

また、大杉教授は現代の課題がろう者の記録の中にあると言います。

(筑波技術大学 大杉豊教授)
「(ろう者は)爆弾がどこで落ちたのか分からない。何かが起きた時に健聴者が逃げていくのに必死で、コミュニケーションができない。様々な基本となる情報がつかめない。今も昔も変わらない。ろう者の記録を見るとさらに理解が深まる。(聞こえる人の記録と)両方を見るのがより理解できる」

戦後81年。戦争を体験した人が年々減っていく中、歴史の中に埋もれたろう者の記憶をどう受け継いでいくのか。残された時間は決して長くはありません。

これまであまり語られることのなかった障がい者の戦争体験。聞こえる人の記録はありますが、障がい者の記録はあまりありません。ただそこには障がい者の日常がありました。

岡山放送
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