日用品メーカーである花王が、なぜ「歩行」を研究しているのか。
一見すると意外に思えるかもしれません。
花王では、生活者のよりよい暮らしを支えるため、商品の機能だけでなく、その背景にある人の感覚や行動といった「人間そのもの」を理解する本質研究に長年取り組んできました。
「歩行」研究も、その一つです。
一生涯、自分の足で歩き続けられることは、健康で豊かな毎日を支える大切な要素です。
高齢化に伴うロコモティブシンドロームやフレイルへの関心の高まり、そしてコロナ禍を経た生活様式の変化。こうした社会背景の中で、「歩くこと」の価値が改めて見直されています。
今回お話を伺ったのは、花王で歩行研究を立ち上げ、20年近くにわたりその発展を牽引してきたヒューマンヘルスケア研究所 室長の須藤元喜さんです。
「歩く」という日常の行為の中に現れる、その人らしさや心身の変化。
須藤さんは、異なるテーマから出発し、「人の状態をどう理解するか」を探究する中で、歩行研究を育ててきました。
本記事では、その歩みを前後編でたどります。
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須藤元喜さん(ヒューマンヘルスケア研究所 室長)
歩行研究が主に行われているすみだ事業場前にて
「動き」をどう捉えるか
歩行研究の出発点
花王では、「人の状態や快適性を正しく理解すること」を、本質研究の重要なテーマの一つとしてきました。そんな中で、須藤さんが最初に取り組んだのが、「むくみ」の実態研究でした。
「2002年に入社し、最初は毛髪や皮膚に関する研究を担当しました。その後、ヘルスケアの研究所で『むくみ』の実態研究に取り組むことになったんです。」
一見、歩行とは関係のないテーマのように思えます。
しかし、ここに歩行研究の原点がありました。
「動かないとむくみ、動くことで解消する。そこで、『動き』を測ることの重要性に気づきました。」
この気づきが、その後の研究の出発点になります。
筋電図などを用いた測定を通じて、身体の内部で起きている変化と外から見える動きを結びつけ、「動作から人の状態を理解する」という視点が形になっていきました。
評価から「人理解」へ
きっかけは赤ちゃんのおむつ研究
研究の対象は、サニタリー領域にも広がっていきました。
中でもおむつの開発では、「装着したまま快適に動けるか」「安全に着脱できるか」といった観点から、人の動きを理解することが重要でした。
動作研究の技術を生かし、須藤さんは2008年頃から乳幼児や高齢者のおむつ評価に携わるようになります。
「最初はあくまで評価のための研究でした。おむつをはいたときに動きやすいか、安全か。それを見るための動作解析です。」
しかし赤ちゃんは、言葉で快適性を伝えることができません。
だからこそ、「動き」というアウトプットから状態を読み取ります。
「 『あんよ』には科学的なアプローチが可能だと考えました。当時すでに成人の歩行解析手法があったため、その応用を試みました。さらに、モーションキャプチャ技術(※)も活用しながら、三次元での動作解析に挑戦しました。」
※ 計測用の反射マーカを全身に貼り付け、複数の赤外線カメラで撮影し、三次元の動作を解析する技術
しかし、実際の赤ちゃんの動作解析は容易ではありませんでした。
測定には身体にマーカを装着する必要がありますが、赤ちゃんはじっとしてくれないためです。
「腕に付ければ外して投げてしまうし、説得もできない。かなり苦労しました。」
それでも試行錯誤を重ねる中で、着用するおむつによって歩き方に違いが現れることが見えてきました。
身につけるものが人の動きに影響するーー。
この発見をきっかけに、動作解析は「評価」のための技術から、「人の状態を理解する」研究へと役割を広げていきました。
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赤ちゃんの動作解析の大変さを振り返る須藤さん
当時の研究論文
ちょうどそのころ、社会ではロコモティブシンドロームへの関心が高まり、「歩くこと」の重要性が改めて注目され始めていました。一生涯、自分の足で歩き続けられることは、健康長寿を支える大切な基盤です。
「歩く速さは健康状態を示す重要な指標であり、将来的なリスクとの関連も指摘されていました。歩行速度と余命の関連性についての報告などもありました。
だからこそ、歩行速度が低下する『予兆』を早く捉え、その低下を遅らせることができれば、健康寿命の延伸に貢献できると考えたのです。」
むくみ研究から始まった「動き」を見る視点は、おむつ研究を経て、「歩行」という日常の行為を通して人を理解する研究へと発展していきました。
その先に見据えていたのは、乳幼児から高齢者まで、一生涯を通じた健康長寿という社会課題への貢献でした。
「速度」ではなく「歩き方」への着目
歩行の本質とは?
それまで歩行は、歩数や距離、速度といった「量」で捉えられることが一般的でした。
しかし須藤さんは、その一歩手前にある「歩き方」に着目します。
「どれくらい歩くかではなく、どう歩いているか。そこにもっと多くの情報があるのではないかと考えました。」
その仮説を確かめるため、日常生活を送る多くの人の歩行データを蓄積していきました。
「今では、歩き方は『歩容』とよばれ、身体的な個人情報として知られてきています。その違いは、身体の状態や習慣、さらには心理状態とも関係している可能性があります。」
つまり、歩行の「質」に着目したのです。
「さらに興味深いことに、歩くこと自体が、脳や神経、筋肉を維持する運動にもなります。だからこそ、『量』だけでなく『質』まで理解できれば、健康を支える新しい価値になると考えました。」
歩き方を知ることは、歩くことそのものではなく、人を理解することにつながる。
そう考えたことが、この研究の大きな転換点でした。
歩行を「測る」から「理解する」へ
技術が広げた人間理解
歩き方から人の状態を理解するには、それを客観的に測る技術が必要でした。
精密な測定には専門設備が必要で、それでは「日常の歩行」は捉えられません。一方、簡易的な測定では、本当に知りたい身体の変化や特徴までは見えてこない。
このジレンマを解消するため、研究は「精密に測る」と「日常で測る」の両立を目指します。
初期には、身体活動量計などを用いて、歩数や重心、足にかかる負荷といった指標を測定していました。さらに、シート式圧力センサーを用いた足圧総合評価システムを開発し、20代から90代まで3万人以上のデータを取得していきます。
東京医療福祉大学との共同研究では、足指の使い方や偏平足と転倒の関連なども明らかにするなど、「歩き方」と身体の状態を結びつける基盤が少しずつ築かれていきました。
しかし、動きの「結果」は見えても、その動きを生み出している要因までは十分に捉えられていませんでした。
「野球で例えるなら、初めは球種や球速を測っていて、そこからフォームを精密に測る方向に進んだイメージです。体の外に現れる動きだけでなく、体の中で何が起きているのかを、もっと理解したかったんです。そこで、当時最先端のモーションキャプチャ技術のシステムを導入し、研究所に専用の評価室も整備しました。」
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動作解析評価室
モーションキャプチャ撮影用赤外線カメラと床反力計を備えた評価環境
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モーションキャプチャ用反射マーカの小型化
赤ちゃんの動作解析当初はピンポン玉程度の大きさ
現在は直径3mmまで小型化し、解析精度が向上
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モーションキャプチャによるデータ解析
反射マーカの位置情報から、歩行を三次元で解析
一方、この方法は日常で使うには難しく、より簡便な方法としてmGCC(mobile Gait Change Capture)が開発されました。新たに取得した100名以上の幼児の精密歩行データをもとに機械学習を活用することで、スマートフォンなどで撮影するだけで、3次元の歩行動作を推定できるようになったのです。赤ちゃんのように自ら測定ができない対象にも、撮影だけで歩き方を解析できるこの手法は特に有効でした。
さらに研究は、「測定室で測る歩行」から「日常で歩行を捉える」方向へと広がっていきます。
「研究開始当初、世の中は万歩計で歩数をカウントする程度のレベルでした。我々は、日常の中で歩行速度や動きの変化を捉えられるようにしたかったんです。」
そこで開発されたのが、3軸加速度センサーを搭載したウェアラブルな歩行計「ホコタッチ」です。
「日常の歩行速度を精密に測れるツールとして活躍し、20代から90代までのべ約2万人のデータを取得しました。得られた様々な情報の中でも、特に日常の歩行速度低下を早い段階で捉えられるようになったことは、研究が大きく前進した実感がありました。」
研究が進むにつれ、「どのように歩いているか」に加え、その歩き方に現れる小さな変化が「いつ現れるのか」を捉えたいという思いが強くなっていきます。
例えば、歩幅の左右差や、わずかなリズムの乱れ。
そうした小さな変化を捉えるには、歩幅や速度だけではなく、骨盤や股関節など関節の動きまで含めて解析する必要がありました。
それらを日常の中で捉えることを可能にしたのが「Walk Coordinator」という研究用アプリでした。
「最新の測定技術として、産業技術総合研究所と共同でスマートフォンの加速度センサーを活用した関節角度推定アルゴリズムを開発しました。これにより、スマートフォンを持ったまま8歩歩くだけで、関節の動きや歩行姿勢の評価ができるようになりました。」
こうして、スマートフォン自体が「日常の中で歩行を理解する」ツールとなりました。
これまで研究者が測定室で解析していた「歩き方」が、一人ひとりにとって、日常の中で自分自身の変化に気づく手がかりへと変わり始めていったのです。
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研究用アプリ「Walk Coordinator」の概要
骨盤や下肢関節の動きを可視化し、歩行の姿勢や癖を評価
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花王の歩行研究の広がり
「個人差」と「予兆」
大規模データが見せた新たな発見
15年以上にわたる研究によって、歩行に関するデータは数万人規模まで蓄積されてきました。
「実際に多くの人を測定していくと、歩き方は一人ひとり異なり明確な『個人差』があることがわかりました。また、歩行の中には身体状態を読み解くための多くの手がかりが含まれていたのです。」
蓄積された歩行データから、日常の歩き方と膝や腰の痛み、将来の健康リスクとの関連など、それまで「仮説」だったことが少しずつ裏付けられていきました。
「日常歩行速度と認知機能や将来的な要介護リスクとの関連性なども明らかになってきました。そして、特に重要だったのが、将来的な機能低下の『予兆』の発見です。」
歩行速度が低下する前の段階から、左右差の増加やわずかなリズムの乱れといった小さな変化が現れていることが見えてきました。しかもそれは、測定会での意識的な歩行ではなく、日常の無意識な歩行の方に、先に現れるのです。
「何気ない日常の歩き方」の方が、身体の変化をいち早く映し出していたーー。
これは、研究チームにとっても大きな発見でした。
この発見をきっかけに、研究の焦点は、健康状態の変化をより早く捉えるための「日常歩行」へと移っていきました。
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測定環境での歩行と日常歩行の比較
日常の歩行は40歳頃から、測定環境での歩行は65歳頃から歩行速度の低下がみられる
(日本生理人類学会誌 2015年 20巻 p.197-205より作図)
「日常歩行」という新たな焦点
日常の中での歩行を精緻に捉えていくことで、次第に見えてきたのは、歩行という行為の本質です。
「歩く」ことは、多くの場合、無意識に行われます。だからこそ、その人らしさや健康状態の変化、さらには心の状態までもが自然に現れることがあります。
歩行は単なる「動き」ではなく、人の状態を映し出す「健康の鏡」として捉えられるようになりました。
次に問われたのは、この知見をどう社会に届けていくか。
後編では、この知見を社会へ届けるための挑戦と、その先に花王が目指す未来を紹介します。
後編はこちら
関連リンク
これまでの主な研究成果(研究開発ニュースリリース)
【歩行解析・測定技術】
花王 | シート式圧力センサーを活用して、歩行時の足圧データ解析により足圧総合評価システムを開発(2019)
花王 | スマートフォンなどで動画を撮影するだけで歩行動作を詳細に解析できる技術を開発(2021)
花王 | 関節の動きを解析する「歩行メカニクスモニタリング技術」を確立 スマホをお腹に抱えて8歩歩くだけで歩行の姿勢や癖を見える化(2023)
【日常歩行と健康研究】
花王 | <歩行モニタリング技術>日常歩行モニタリングのさらなる進化 -認知機能低下の推定や歩行安定性の評価へ応用できる可能性-(2022)
花王 | <歩行モニタリング技術>日常歩行モニタリングが将来のフレイル進行の推定に応用できる可能性を確認(2022)
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