「天下を狙った将軍が、力を蓄えた場所が富山県にあった」

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そう語るのは、射水市新湊博物館の学芸員・松山充宏さん。

富山県射水市放生津。日本海に面した小さな港町に、今も静かに眠る「歴史の聖地」がある。

「ここに城跡がある」 ただの城跡ではなかった

松山さんに案内してもらったのは、射水市立新湊放生津小学校のグラウンド。子どもたちが走り回るその地面の下に、500年前の日本史を動かした遺構が眠っている。

「放生津城というお城があった場所です」と松山さんは説明する。

しかし、意外なのは城跡そのものではない。

「富山県内に城跡は他にもいっぱいある。でも、この城跡だけは全然違う。他の城とは比べ物にならない」

では、何が違うのか。

橋の上の武将銅像が示すもの 「ダブル幕府、ダブル将軍」

内川にかかる橋のたもとに、勇ましい武将の銅像が立っている。

室町幕府の第10代将軍、足利義材(よしき)。

銅像の台座に刻まれた文字を追うと、こんな言葉が目に入る。

「明応7年に期を得て、放生津を出陣するまで、この地で越中公方政権を樹立した」

「越中公方、政権」 つまり、日本の中央政府である幕府が、ここ放生津にあったということだ。

「室町幕府が京都と越中放生津に分裂したんです」と松山さんは言う。

「ダブル幕府、ダブル将軍です」

なぜ将軍は富山へ来たのか 「明応の政変」という大事件

話は今からおよそ530年前に遡る。

当時の日本を揺るがした政変が起きた。「明応の政変」である。

第10代将軍だった足利義材は、時の権力者たちの策略によって捕えられた。そして、弱冠12歳だった足利義澄が強引に担ぎ上げられ、第11代将軍の座に就いた。

京都を追われた義材将軍が頼ったのが、越中守護代を務める武将・神保長誠だった。

義材はその庇護のもと、現在の射水市放生津へ。放生津城を拠点に、およそ5年間にわたって「放生津幕府」を樹立した。

城には「武家御幡(ぶけみはた)」と呼ばれる旗を掲げ、自分こそが正統な将軍であることを天下に示した。

なぜ放生津だったのか 港町が持つ地政学的な力

義材将軍は、なぜよりによって放生津という地を選んだのか。

「放生津という港町は、東日本と西日本を結ぶ陸路も通っていて、また日本海も行き来する港でもあったので、情報や物やお金がいっぱい集まる場所だった」と松山さんは解説する。

情報、物資、資金―。将軍が京都奪還を目指すために必要なものが、ここには揃っていた。

放生津は、戦国の荒波を生き抜くための戦略拠点として、これ以上ない条件を備えていたのだ。

「歴史の聖地」として、いま再び注目される

ダブル幕府・ダブル将軍という異例の時代は、およそ5年間続いた。

その後、義材将軍は再起を期して放生津を出陣。波乱に満ちた生涯をたどることになる。

放生津幕府の存在は長い間、歴史の中に埋もれてきた。

しかし松山さんはこう語る。

「戦国日本史は非常に注目されている。不撓不屈の足利将軍が注目されている。天下を狙った場所が富山県射水市にあった―。ここは歴史の聖地になっています」

小学校のグラウンドの下には、今もその遺構が静かに眠っている。

日本の行方を左右した将軍が旗を掲げ、雌伏の日々を送ったこの地は、500年の時を超えて、いま改めて脚光を浴びようとしている。

(富山テレビ放送)

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