広島電鉄「駅前大橋ルート」の開業に伴い廃止となった猿猴橋町電停。JR広島駅からすぐそばの猿猴橋エリアで125年続く理容院と78年の歴史を持つカメラ店を訪ねると、古い写真や懐かしい道具が静かに昔の風景を教えてくれました。変わる駅前と、残る記憶がほどよく交差する散歩記です。

4代目が守る理容院

JR広島駅そばの商業施設1階にある理容院「メンズサロン アキノブ」は創業1901年。店主の秋信隆さんは125年続くこの店の4代目です。店の壁には4枚の古い写真が飾られていて、大正から昭和まで、それぞれの時代の広島駅やその周辺の様子が記録されています。秋信さんはその1枚について「これは昭和21年に撮影された写真です。闇市の様子や当時の広島駅、路面電車の電停も写っています。端のほうに建設中の理容院も写っていますね。」と話します。

秋信隆さん
秋信隆さん
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写真とアルバムの記憶

これらの写真はカメラが趣味だった父・邦之さんが撮影したものや、客から譲り受けたものです。秋信さんは、このほかにも猿猴橋エリアの写真を収集し、アルバムにまとめています。その数なんと30冊。どれも貴重な写真ですが、その中の1枚は昭和初期に店を改装した際、絵はがきにして配ったもので、モダンな店内の様子が写されています。また秋信さん自身もカメラが趣味で、このエリアの写真を撮り続けています。昔の写真と同じ場所から撮影することも―2枚の写真を並べると時代の移り変わりをはっきりと感じとることができます。

昔の猿猴橋町の写真と同じ場所で撮影された写真
昔の猿猴橋町の写真と同じ場所で撮影された写真

昔の道具が語ること

さらに、秋信さんが店の奥から取り出して見せてくれたのは、明治、大正時代、実際に店で使っていたという大きなバリカンです。とてもきれいな状態で保管されています。昭和20年8月6日、原爆投下により理容院は全焼。全てのものを失いましたが、このバリカンは祖父の仙太郎さんが疎開させていて難を逃れたといいます。「戦争が終わったら皆の髪を切らなければいけないという使命感もあったのでしょう。」と話します。

明治、大正時代に使われていたバリカン
明治、大正時代に使われていたバリカン

猿猴橋を撮り続けたカメラ店

町の名前にもなっている猿猴橋は1589年、毛利輝元が広島城の築城を始めたころに木橋として架けられたと伝えられています。その猿猴橋たもとのマスヤカメラは昭和23年創業。今では大変珍しい戦前や戦後すぐのカメラも取り扱う老舗の中古カメラ専門店です。店内にあるのはカメラだけではありません。猿猴橋に関わる貴重な写真が多数保管されています。大正時代に撮影された工事中の写真や馬車が通る昭和初期の写真など、当時の様子が鮮明に記録されています。

戦前から戦後すぐの様々なカメラ
戦前から戦後すぐの様々なカメラ

復元と地域の思い

鷹のブロンズ像が印象的な現在の猿猴橋は平成28年に復元されたものです。マスヤカメラ店主の増本光雄さんに猿猴橋が元の姿を取り戻した経緯を教えてもらいました。大正15年、鉄筋コンクリート製に建て替えられた猿猴橋には鷹のブロンズ像のほかシャンデリア風の電飾灯など豪華な装飾が施されていました。ところが、戦時中に金属を集めるため取り外され石の欄干に。その後も原爆の被害を受けながらも広島の交通を支え続けてきました。平成20年、昔の姿を取り戻そうと増本さんら地元住民が「猿猴橋復元の会」を発足、寄付金活動を行いながら広島市に復元を働きかけ完成したのが今の猿猴橋です。増本さんは「広島は原爆でほとんどなくなったんですよ。…だから何かは残さないと。」とその思いを話します。

鷹のブロンズ像が印象的な現在の猿猴橋
鷹のブロンズ像が印象的な現在の猿猴橋

駅前の変化と願い

駅前大橋ルートの開業で猿猴橋町電停は廃止され、駅周辺の様子は大きく変わりました。増本さんは駅周辺の賑わいについて「お客さんはたくさんミナモア(広島駅ビル)に来るんですが、そこから猿猴橋方面には来ないんですよね。」と話します。明治から続く理容院店主の秋信さんも電停の廃止で人の流れが変わったことに危機感を感じています。二人に共通するのは地元への熱い思い、昔の賑わいを取り戻すためにも地元の歴史をしっかりと伝えていくことが大切だと考えています。

増本光雄さん
増本光雄さん

猿猴橋そばの理容院とカメラ店に残る写真や道具は、街の過去と現在をやさしくつないでいます。変わる駅前の風景を横目に、足を伸ばせば出会える記憶がここにはあります。静かに受け継がれる営みと歴史が、これからのまちの魅力につながっていくことを期待したいですね。

テレビ新広島

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