鹿児島・種子島生まれの「南海の黒ひょう」が静かに旅立った。元大関若嶋津、引退後は松ヶ根親方、二所ノ関親方として後進の指導にあたった日高六男さん(69)が2026年3月15日、肺炎のため千葉県内の病院で亡くなった。鹿児島の関係者はその真面目さ、母校、地元を大切にする人柄をあげ、早すぎる旅立ちを悼んだ。
鹿児島での大関昇進記念パレードに街が沸いた
1982年(昭和57年)大相撲九州場所。東の関脇だった若嶋津は12勝3敗の好成績をあげ、場所後に大関昇進を決めた。そして12月、鹿児島市で記念パレードが開かれ街が沸いた。若嶋津は優しくファンに手を差し伸べその優しい人柄をのぞかせていた。
のちの若嶋津、日高六男さんは1957年(昭和32年)、鹿児島・種子島の中種子町出身。左四つからのスピード感あふれる取り口が持ち味で、浅黒い体に俊敏な動きから「南海の黒ひょう」と呼ばれ人気を博した。

1984年(昭和59年)の春場所で14勝1敗。名古屋場所15戦全勝。大関・若嶋津は2度、賜杯を手にしたが横綱にはあと一歩届かなかった。1987年(昭和62年)名古屋場所で引退。3年後に松ヶ根部屋を創設し後進の指導にあたった。

母校に残る化粧まわし 元校長も感慨深げ
鹿児島市の樟南高校。かつて鹿児島商工高校と呼ばれていたこの学校が、若嶋津の母校だ。校内の資料室は野球部などさまざまな運動部の栄光の軌跡が並ぶが、部屋の奥に鎮座するのが、当時の校章があしらわれた緑色の化粧まわし。学校が若嶋津に寄贈したものだ。

当時、学校の理事長兼校長だった時任克暢さん(94)は「これを見ると大関・若嶋津として活躍した頃の記憶がよみがえる」と感慨深げに語った。

高校時代の若嶋津はとにかく真面目すぎるくらい真面目な生徒だったという。当時の写真を見ると、監督の期待も高く、グングン実力を伸ばしていった。「素直さがあったんでしょうね」と時任さんは振り返った。

角界入りしてからも若嶋津は「人をとても大切にしていた」と時任さんは話す。それは時任さんの父で前任の理事長だった紹彦さんの教えそのものだった。ちょんまげ姿で県立鴨池球場(現・平和リース球場)に足を運んでは後輩の野球部員を応援したり、九州場所後は必ず母校を訪れ、全校朝礼で生徒に話をしていたりしていた。精悍な顔立ちで人気を博した若嶋津だけに女子生徒からも大いに注目されたという。
地元からも惜しむ声 小学生の時胸を借りた思い出も
若嶋津を悼む声は地元・種子島でも。西之表市相撲連盟・美坂達也事務局長は突然の訃報に「ただただ本当に驚きだった」こう切り出した。「小学校ながら土俵に上がり若嶋津さんの胸を借りた。島民誰しもの心の中に残る力士だったと思う」美坂さんは記憶をたどるように振り返った。

2017年に倒れて頭部の手術を受けたが、その後回復しみづえ夫人らとともに元気な姿も見せていた若嶋津こと日高さん。それだけに時任さんは「もう元気にしているものだと思った。これから部屋をどんどん大きくしていくんだろうと思っていた。こんなに早く逝くとは思わなかった」と、その早すぎる死を惜しんだ。
若嶋津が天国に旅立った3月、奇しくも樟南高校の後輩、福崎改め藤天晴が新十両となった。これからも若嶋津は、後輩を、そして鹿児島の相撲ファンを大切に、温かく見守ってくれるに違いない。
(動画で見る▶「優しかった」元大関 若嶋津さん死去、『南海の黒ひょう』が残した足跡と故郷の追憶)
