広島城が抱える問題

今から62年前の1958年に再建された広島城。現在の広島城は実は3代目。耐用年数をめぐり、今、広島城が岐路に立たされている。

広島市の中心部にある「広島城」。別名「鯉の城」「鯉城」とも呼ばれている。去年は32万人以上が訪れた。

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広島市民は広島城のことをどれくらい知っているのか。

ーー広島城の歴史は知っている?

広島市民:
全然分からないです。

広島市民:
(広島城がある)場所くらいしか分からないです

幅広い年齢層に聞いてみたが、よく知らない人が多いようだ。広島城の歴史を短く紹介する。
広島城を築城したのは戦国大名・毛利元就の孫、毛利輝元だ。毛利輝元は豊臣秀吉が築いた大坂城と京都の聚楽第を訪れ、城づくりを決意したと言われている。

江戸時代中期に書かれた大変貴重な広島城の資料。今回、特別に見せて頂いた。

広島城 篠原達也主任学芸員:
こちらに年次が記されていまして、元禄14年と書いてあります。西暦でいうと1701年ですので、320年前くらいですかね。赤く塗られている場所、こちらこちら、そしてここですね、3ヵ所ほど赤で塗られた場所の石垣を修復したいということで(幕府に)申請が行われたそうです。こちらの絵図には今、復元されている天守以外の櫓や城門なども描かれています

かつての広島城には、南と東にそれぞれ小天守がある連結式の天守だった。小天守は明治初期に取り壊されたが、大天守は江戸・明治・大正・昭和と約350年近くその姿があった。

しかし、1945年8月6日、アメリカが落とした原子爆弾で広島城は焼けることなく、爆風で崩れたという。広島城の木材は被爆者たちの家の建築や、冬の寒さをしのぐために使われたともいわれている。

原爆投下後、石垣や堀を残すのみとなった広島城だが、1951年、国民体育大会に先立ち開催された体育文化博覧会の一環で二代目となる広島城が建設される。
実際の天守より小さな「模擬天守」で、城内ではゾウが展示された他、ジェットコースターが備え付けられるなど、戦後の復興から立ち上がる市民を楽しませる憩いの場所だった。

その後、模擬天守は解体されるが、広島城の再建を求める声が市民から上がり、今から62年前の1958年に現在の天守閣が再建された。そんな広島城、今、ある大きな問題を抱えている。

藤原宇裕記者:
ここは天守閣の真下です。実はこの場所、以前は通行できていましたが、落下物の危険性があることから通行ができなくなっています

広島城が直面している問題、それは老朽化。一般的に鉄筋コンクリート建造物の耐用年数は60年程度。1958年に再建された天守閣や石垣など、多くの場所で劣化が進んでいる。

広島市によると、震度6強~7程度の地震に耐えられないため「耐震化」を施す必要がある。耐震改修は地震の振動や衝撃に対して、建物が崩壊する危険性を取り除くために行う工事で、耐用年数を延ばすことはできない。

広島市元職員 檜垣栄次さん:
ここに来るのは3年か4年ぶりくらいかな

広島市東区に住む檜垣栄次さん。広島市の元職員で広島城の館長を務めた経験もある。檜垣さんは今から30年以上前に、広島城の保存管理と整備基本計画書の作成に携わった。

広島市元職員 檜垣栄次さん:
今ある天守閣じゃなしに、これも含めて東小天守も南小天守も含めた三連郭の建物を復元したらどうかという話があった。大学の先生が(木造復元の)試算をしたことがある

これは当時制作された整備完成のイメージ図。天守閣と小天守が連結している他、木もすっきりしていて、城内のどこからも広島城を見ることができる。

広島市元職員 檜垣栄次さん:
広島城の場合は図面が残っている、それを元に復元することは可能。木造はやっぱり材料費、木材は高い。手に入らないから、金をかけて集めるしかない。ここを復元したら材料費が結構かかるじゃろうなという感じはする

広島市は現在、「広島城の在り方に関する懇談会」を開催していて、引き続き、議論を重ねることにしている。

(テレビ新広島)

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