東日本大震災当時、沿岸の多くの病院が機能停止に陥るなか、津波被害を免れた石巻赤十字病院は、地域の拠点病院として被災者の命を守り続けました。
未曽有の災害に、医療現場はどう向き合ったのか。そして、その教訓はいま、どのように生かされているのでしょうか。
(VTRには一部津波の映像が含まれます)
雨風にさらされ、半分破れた赤十字旗。東日本大震災の発生直後から、およそ1カ月間、石巻赤十字病院に掲げられていました。
激動の日々を刻んだ旗が、あの日の記憶を、静かに伝えています。
海岸線から4.5キロ内陸にある石巻赤十字病院。現在のロビーは落ち着いた雰囲気ですが…。
15年前、この場所は被災した患者であふれ、まるで「野戦病院」のような状況となっていました。
2011年3月11日午後2時46分、東日本大震災。石巻赤十字病院では、直後の様子が映像として残されています。
石巻赤十字病院経営企画課 青木義浩主事(49)
「ガタガタガタって揺れが来てこの地震の揺れは大きそうだぞと感じて手元にあったビデオカメラを持って撮影を始めた」
「最初はここで構えて立ってはいたんですけど途中で揺れが大きくなって立っていられなくなったので立ち膝になって自分の足場を安定させて撮影をしていた」
当時、病院では、「宮城県沖地震の発生確率が30年間で99%」とされていたことを受け、職員の名前と役割を記した災害対策マニュアルを2007年に改定。
年に1度、大規模な訓練を行い、それぞれの役割を明確にしていました。
広報担当だった青木さんは、その役割にもとづき、揺れている最中から撮影を開始したのです。
そのほかにも、地震発生から4分後には、院内に災害対策本部が。そして40分後には、傷病者の治療優先順位を決める「トリアージエリア」が完成。万全の受け入れ体制が整えられていたのです。
震災前、このマニュアル改定を主導したのが、県の災害医療コーディネーターを務めていた石井正医師です。
県災害医療コーディネーター(当時)石井正医師
「(自分は)見てるだけ自動的に職員たちが動いていて。40~50分ぐらいでトリアージエリアが立ち上がったんですけど、これ実動では驚くべきスピードであると非常に高く評価されましたね当時」
しかし、この大災害は想定をはるかに超えていました。
県災害医療コーディネーター(当時)石井正医師
「(初日、傷病者が)ほとんどあまり来なかったんですよね。あとで考えると病院までたどり着けなかったっていうことだと思う。津波が来てるかどうかこの時点で分かってなかった」
このとき、石巻の沿岸部には8.6メートルの津波が襲来。交通網は寸断され、多くの人が病院にたどり着くことができませんでした。
石巻赤十字病院は、津波被害を免れましたが、近隣の医療機関はほぼ機能停止に。
巨大津波は、想定の外にありました。
2日目以降、状況は一変します。
津波にのまれ、長時間、寒さにさらされた低体温症の患者が次々と搬送されました。
ありったけの毛布で体を温め、目の前の命を救い続けました。
その記録は、今も大切に残されています。
災害対策本部で調整にあたった魚住拓也さんです。
災害対策本部調整員(当時)魚住拓也さん
「こちらトリアージタグって呼ばれるもので、トリアージした際に、記録を残すもの。2日目からどんどん来て、ヘリとかでも運ばれてきて2日目で、赤(治療最優先患者)だけで200人とか。1階が、もう床が見えないくらい傷病者が全部並んでて。ここほんとに日本なのかなというふうに思ったのは、覚えています」
平常時、60人ほどの救急搬送が1250人を超える日もありました。
当時2年目だった看護師、佐々木麻未さんです。
当時2年目佐々木麻未看護師
「どんな患者さんが来るか分からない、どのような対応をしなければいけないか分からない状況の中で、果たして自分はできるのだろうかっていう不安を持ちながらも、あ、行かなきゃって思って行った」
専門の垣根を超えて対応するスタッフたち。中には、家族の安否がわからないまま、働き続けた職員もいました。医療者自身も被災者だったのです。
震災から6日後の夜、石井医師は被災地を歩きます。
県災害医療コーディネーター(当時)石井正医師
「真っ暗なんですよ。全部停電ですから。電気もない、暖房もない中でじっと耐えてるんだと思ったらね、マジで涙が出てきそうになってですね。頑張んなきゃいけないなとそれがきっかけっていうかモチベーションでしたね」
石巻赤十字病院では震災の発生から半年間で、のべ3633チーム、2万人を超える医療従事者が応援に入り、およそ5万4000人を診察。被災者の命を守り続けました。
命を守る最前線で奮闘した医療現場。
その一方で、震災対応の中では新たな課題も浮かび上がりました。避難所の衛生環境や制度の問題など、被災地が直面した現実です。その教訓は、いまの防災にどう生かされているのでしょうか。
呼吸器外科副部長(当時)植田信策さん
「津波が襲った地域ですから泥だらけなわけです。枕元を土足で歩かれるところにみんな寝ているんです」
当時、石巻赤十字病院で呼吸器外科の副部長を務めていた植田信策さんです。
避難所で目にしたのは、厳しい現実でした。
呼吸器外科副部長(当時)植田信策さん
「衛生的にも、それから人が住む環境としても、あまりにひどいと。とにかく人が住めるような環境にしなきゃいけないというのが1番思ったことで」
そこで植田さんたちが提案したのが、「段ボールベッド」の導入でした。
床から体を離すことで、感染症の予防や、エコノミークラス症候群の防止にもつながると考えたのです。
しかし、そこには制度の壁がありました。
呼吸器外科副部長(当時)植田信策さん
「災害救助法にはベッドのことは書かれていないですし、当然のことながら市役所もそういう用意はないわけですよね。市役所の職員だったり、あるいは管理をされてる自治会の方たちもベッドがいいってことをなかなか理解してくれなくて」
それでも、現場からの声は社会を動かしました。
現在、段ボールベッドの設置は防災基本法で努力義務とされ、全国で600の自治体が供給協定を結ぶまでに広がっています。
そして、教訓は地域にも受け継がれています。
西ノ入菜月アナウンサー
「こちらでは避難所を想定した段ボールベッドの設置訓練が行われています。参加しているのは地域住民の皆さん、そして指導を行うのは石巻赤十字病院のスタッフの皆さんです」
段ボールベッドを実際に組み立てながら、設置方法や使い方を学びます。
いざという時のために、病院と住民が一緒に備えを進めています。
震災の経験は、医療従事者一人ひとりの歩みにも影響を与えました。
当時2年目の看護師だった佐々木麻未さんです。
震災をきっかけに、県と国のDMAT資格を取得。15年前、未曾有の災害に向き合った経験が、学び続ける意思につながっています。
石巻赤十字病院災害看護専門 佐々木麻未看護師
「もっと知識を付けてさらに経験も積んでいく、その両輪を備えていくことで災害時に助かるべき命を助けていけるような人になりたいなというふうには感じています」
震災から生まれた教訓は、地域の備えとなり、医療を担う人たちの志となって、いまも受け継がれています。未来の命を守るために。