日本の古代史最大のミステリー、「邪馬台国」。所在地をめぐる論争に決着はつくのだろうか。
日本の古代史最大の謎、女王「卑弥呼」の墓とされる説もある古墳で、新発見があったという。
この発見で、決着が期待されるのが…邪馬台国論争。
卑弥呼がいたとされる「邪馬台国」は一体どこにあったのか?
考古学ファン:奈良であってほしい。
考古学ファン:九州でしょうね。
奈良を中心とした「畿内説」と「九州説」がしのぎを削る中、他にも「我こそは邪馬台国」と論争に参戦する地域が。
300年以上続く古の謎に卑弥呼の愛犬もビックリ!?邪馬台国論争の今を「newsランナー」緊急取材だ。
■いまだ決着がつかない邪馬台国論争「九州説VS畿内説」
古くは3世紀、日本を治めたとされる女王「卑弥呼」。
<魏志倭人伝より>「鬼道(きどう)に事(つか)えて、能く衆(よしゅう)を惑わす」
彼女が呪術を用いて、統治したとされる「邪馬台国」の存在は、日本の古代史上、最大の謎となっている。
というのも、中国の歴史書、「魏志倭人伝」が伝える邪馬台国への行程をたどると、その場所は九州のはるか南の海上に。
そんなあいまいさの中、いまだ決着がついていないのが…「邪馬台国論争・九州説VS畿内説」だ。
吉野ヶ里遺跡のような、大規模な集落が出土した福岡県、佐賀県を中心とした「九州説」。そして、前方後円墳の中でも、初期のものが多く集まる奈良県を有力候補地とする「畿内説」が、互いに譲らず、論争を繰り広げてきた。

■「畿内説」を後押しする奈良の出土品
中でも、「畿内説」をめぐっては…
記者リポート:私が立っております、こちら後円部から鏡が見つかったのですが…。
天理市の古墳で、30枚を超える三角縁神獣鏡が出土。魏から卑弥呼に送られた鏡とも言われた。
また桜井市の「纒向遺跡(まきむくいせき)」では、“卑弥呼の宮殿”を彷彿とさせるような、3世紀の日本では最大となる建物の跡があった。
さらに近くの博物館を訪れると…
記者リポート:付近の遺跡から出てきた犬の全身骨格から復元された模型です。もしかしたら、この犬の頭を卑弥呼がなでていたのかもしれません。

■「畿内説」裏付ける?新たな発見「渡り土堤」
こうしたなか先週、“畿内説”を裏付けるかもしれない新たな発見が。
3世紀中ごろに建造されたとされ、“卑弥呼の墓”との説もある前方後円墳、「箸墓(はしはか)古墳」。
ここで、墳丘と外部を結ぶ「通路」の役割をもつ、「渡り土堤」とみられる遺構が見つかったのだ。
長年、発掘調査に携わってきた橋本さんに聞くと…。
桜井市埋蔵文化財センター 橋本輝彦所長:今回の『渡り堤』は、卑弥呼の墓ともいわれる箸墓古墳が、どういう属性を持っているのかの調査になりますので、今回の発見をもって邪馬台国論争に、何らかの影響を与えることは全くない。
残念ながら、「特に関係はない」とのこと。
ただ、橋本さんは、これまでの発見から、「奈良に邪馬台国があった可能性が高い」と話す。
桜井市埋蔵文化財センター 橋本輝彦所長:纒向遺跡が日本で一番最初に、前方後円墳を編み出した場所であって、日本列島各地から人が集まってきたことを示す土器が、大量に纒向遺跡から出てきたりとか、そういうものを総合して見ていった時に、やっぱり纒向っていうのは、一番中心に来るべき遺跡であると言えます。

■根強い「九州説」
しかし、先週行われた現地説明会に参加した人に話を聞くと…。
箸墓古墳 説明会の参加者:九州でしょうね。魏志倭人伝の邪馬台国というのは、(卑弥呼と)100人が殉葬されてないといけない。こんなところに100人殉葬者がいてるんかどうか…。
箸墓古墳 説明会の参加者:(卑弥呼の後継者とされる)台与(とよ)・壱与(いよ)ちゅうかね、その方の墓がどこか、ちゅうのと、卑弥呼さんとはペアになってると思うので、それが分からないと九州も有力やし。
まだまだ九州説も根強い様子。

■書籍も出版「邪馬台国近江説」 弥生時代後期・国内最大級の遺跡
そして、取材を進めると…「我こそは邪馬台国」と参戦する地域がほかにも!
取材班は書籍も出版されている「邪馬台国近江説」の舞台滋賀県守山市へ。市内には確かに…弥生時代の遺跡があちらこちらに点在している。さらに!
もりやま卑弥呼:私は、“喋れる卑弥呼”そして、“踊れる卑弥呼”そして、“元気な卑弥呼”として。
15年前から卑弥呼コンテストが開催され、選ばれた「もりやま卑弥呼」がイベントに参加するなど、街をあげた取り組みも!
守山市商工会所青年部 岡田和也会長:“邪馬台国は守山”に、発祥の地だったんじゃないかと。
一体、なぜ守山市が邪馬台国なのか?
記者リポート:邪馬台国近江説を象徴する場所が、伊勢遺跡です。
現在は市民の憩いの場、公園になっている「伊勢遺跡」だが、弥生時代後期では国内最大級の遺跡なのだ。

■邪馬台国につながる『卑弥呼共立(選定)の舞台』になった可能性
そんな「伊勢遺跡」の発掘調査に36年前から関わっている伴野さんに教えてもらった。
守山市伊勢遺跡史跡公園 伴野幸一所長:恐らくここが1900年前の政治や祭りをする、そのためだけに作られた遺跡。
伊勢遺跡では、これまで「弥生時代後期」の多数の大型建物跡が見つかり、卑弥呼の居所ともいわれる「楼観(ろうかん)」もあったことから近江説が浮上。
しかし近年の研究で、邪馬台国の誕生が弥生時代の後の「古墳時代」という説もあり、論争にも変化があるようで…
守山市伊勢遺跡史跡公園 伴野幸一所長:邪馬台国につながっていくような“前代の動き”がこの近江にあった。『卑弥呼共立(選定)の舞台』になった可能性はある。
(Q.邪馬大国が近江にあったわけではない?)
守山市伊勢遺跡史跡公園 伴野幸一所長:ではないですね。夢があるので、まだまだ楽しめる。

■鳥取県米子市も名乗り 50カ所以上が邪馬台国があったと主張
そして「近江説」以外にもここ最近、突如論争に参戦した地域が。
「邪馬台国は淀江で始まった」と言い切る冊子を作成したのは、鳥取県米子市。
米子市淀江振興課 齊藤敦士さん:大穴として、鳥取県米子市淀江町っていうのも、地形条件とか当時の技術からしましたら、あるんじゃないかと。
米子市では土木の専門家が地理的条件などをもとに検証。
当時、国を繁栄させるためには、多くの「鉄」が必要で、輸送可能なルートとして好条件だったのが、米子市の淀江エリアだというのだ。
米子市淀江振興課 齊藤敦士さん:信じるか信じないかは、倭(あなた)が決めてごしない(ください)!
全国邪馬台国連絡協議会によると、「邪馬台国があった」と主張している地域は少なくとも50カ所。
まさに、乱立状態なのだ。

■「奈良・纏向遺跡こそが当時の首都」と考古学者
そんな中、取材班は、この論争に決着をつけるかもしれない専門家に接触。
長年、纒向遺跡などの研究を続けてきた考古学者の寺沢薫さんだ。
桜井市纏向学研究センター 寺沢薫センター長:倭国の中心が纏向遺跡に置かれた。この纏向遺跡があるこの場所が邪馬台国。
寺沢さんによると、そもそも卑弥呼は、倭国という複数の国の連合体の女王で、その都があった場所が邪馬台国だったというのです。
日本の政治の中心も九州から邪馬台国に移ったことから、そこにあった纏向遺跡こそが当時の首都になったというのだ。
桜井市纏向学研究センター 寺沢薫センター長:3世紀になると、纒向遺跡が倭国の政治の中心になる。その女王は卑弥呼だった。これは全てイコールでつながる。自動的に卑弥呼という女性は、ここ(奈良)にいたとしか言いようがない。
寺沢さんによると、「考古学的には、9割方、邪馬台国は畿内にあった」という。

■ついに決着か? 「何が出ても水掛け論」と橋本さん
ついに、論争に決着がつくのか!桜井市の橋本さんに聞くと。
桜井市立埋蔵文化財センター 橋本輝彦所長:いや、多分ね、それは決着しないと思います。
魏志倭人伝に書かれている、魏の皇帝から卑弥呼に贈られたとされる「金印」が見つかっていないのだ。
桜井市立埋蔵文化財センター 橋本輝彦所長:九州の人たちとお酒飲んでる時に冗談で、『纏向(奈良)で金印が出たらどうする?』っていう風にしゃべってたら。
九州説の人は『大和の王権が、九州の金印を奪ったと言う』と言いましたので、もう多分水掛け論になるので、何が出ても多分決まらんだろうとは思います。
決着がつかずじまいの「邪馬台国論争」。みなさんは、どこにあったと思うだろうか?
(関西テレビ「newsランナー」2026年2月24日放送)

