2011年3月に発生した東日本大震災の原発事故のあと、福島県の南相馬市から家族で愛媛に避難した
渡部寛志さん。今年3月のある日、避難地の伊予で育てた柑橘を愛媛大学に送り届けていた。

 
 
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渡部さんはボランティア団体を通じて毎年、被災地に愛媛の柑橘を送っている。
渡部さんの軽トラックのナンバーは311、今もあの日の記憶は忘れられないという。

 
 

渡部さんは原発事故の直後、知人のいる愛媛に妻と娘2人の家族4人で避難してきた。
その後、伊予市で農業を行いながら生計を立て、愛媛で3人目の子供も授かった。
避難生活も7年。子供たちも、その人生の大半を避難先で過ごしてきた。

2018年3月11日、あの日から7年…
この日、渡部さんの13歳になる長女 明歩さんと9歳の次女の明理さんはあるイベントで福島県南相馬市で唄い継がれる“相馬盆唄”を愛媛の人々に披露していた。

この“相馬盆唄”は故郷の人々が長年、毎年夏の盆踊りで唄い継がれてきた唄だ。
 

 
 

震災から7年となる、この日に、二人が愛媛の人々を前に“相馬盆唄”を披露するのは
震災前の福島の様子を愛媛の人々に少しでも伝えたいという思いがあったからだ。

明歩さんは、「あの日、福島で起きたことは愛媛の人にはわからないかもしれないけれど、
“相馬盆唄”を通じて、少しでも福島の風景を思いめぐらし、福島のことを一緒に考えてもらえれば…」
と、話す。

 
 
 
 

同じ頃、愛媛大学では東日本大震災の復興イベントが行われ、そこでは渡部さんが愛媛で育てた柑橘に
多くの人が被災地へのメッセージを書き込んでいた。このメッセージ入りの柑橘は、その後、福島に届けられた。

渡部さん家族は今年、大きな決断を下した。
福島で農業を再開し、福島での生活に挑戦してみるというのだ

 
 

渡部さんが住んでいた福島県相馬市小高地区は原発事故の影響でしばらく立ち入ることがで出来なかった。
しかし2016年になり避難指示が解除。その後、2017年にはコメの作付制限もなくなり故郷に帰れる環境が徐々に整いつつある。

 
 
 
 

渡部さん家族は、福島でのコメ作り再開のため、田植えの時期と稲刈りの時期は福島で過ごす予定だという。4月から、愛媛にも拠点を残しつつ、福島と行ったり来たりの生活を選んだ。
国が計画した除染作業が終わったとはいえ、7年も放置した土地でコメ作りができるのか?
そして、何よりも子供たちの健康への不安が頭をよぎる。

不安を抱えつつ渡部さんは、なぜ福島での再出発を決断したのか?
「様々な制限が解除されたとはいえ、震災前の状況とは程遠い福島の故郷。
故郷を元の風景に何とか戻したい…その復興に自分も何か携わりたい…」と渡部さんは語る。

あれから7年。
4月から渡部家の新たな生活が始まる。

 
 
テレビ愛媛
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