ソ連の衰退による東欧の民主化

早朝5時にホテルの部屋の電話が鳴った。
平成元年(1989年)12月25日、クリスマスの朝だ。
僕はチェコのプラハにいてルーマニアに入る準備をしていた。

プラハは東欧一の都会でホテルや国際電話回線、交通の便が良かったので、フジテレビの東欧臨時支局のようになっていた。

ソ連の衰退による東欧の民主化は、この年6月にポーランド、10月にハンガリーで社会主義政権が倒れ、11月にドイツでベルリンの壁が崩れた後、ここチェコでのビロード革命を経て、チャウシェスク独裁政権のルーマニアにまで及んでいた。

ベルリンの壁崩壊
ベルリンの壁崩壊
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ただこれまでの無血革命と違ってルーマニアでは軍が介入し、かなりの血が流れていたので入国には神経質になっていた。

欧州のメディアは陸路でルーマニアに入り、すでに英国の民放テレビ局ITNの中継車も現地入りして、衛星中継の手はずもできていたので、あとは僕がカメラクルーを連れて入るのを東京は待っていた。

前日に東京のデスクと言い合いになった。
デスクは欧州のメディアのように陸路で入れと言ったのだが、プラハで雇った通訳のおばさんに聞くと、プラハからブカレストへの道には山賊が出る、やめといたほうがいい、ということだった。

海外、特に危険な所では地元市民の情報が最も頼りになる。
プラハの日本大使館にも行ってみたが、「ルーマニア行くんですか?危ないですよ」と言うだけで何の情報もくれなかった。
前日の電話ではデスクとは「行け」「行かない」の言い合いになり、最後はこちらから一方的に電話を切ってしまったのだった。
自分の身は自分で守るしかない。

その日の電話に出るなりデスクは、「おお、まだルーマニアに向かってなかったか。よかった」と嬉しそうに言った。

どうしたのか聞いてみると、産経新聞の記者が陸路でブカレストに入る途中、山賊に襲われて銃で胸を撃たれたという。
デスクに「だからやっぱり陸路はやめよう」と言われ、この野郎と思ったが、通訳さんの言うこと聞いといてよかった、と胸をなでおろした。

山賊に襲われて銃撃されたジャーナリスト

この時に銃で撃たれた産経の名雪雅夫記者とは、2年後に赴任したワシントンで会った。
ハンガリー側に脱出して町医者に銃弾を摘出してもらい助かったという。

撃たれた時に、もうだめかと思って手帳に奥さんへの遺言を書いた。
後に手帳と一緒に血染めのハンカチを奥さんに見せたら、「そんな汚いもの捨てなさい」って言われちゃってさあ、とヒゲ面でぼそぼそ言う面白い人だった。

名雪さんのヒゲは立派だったが、頭髪はそうでもなかった。
「産経抄」によると、無事を本社に伝えると当時の外信部長(後の社長)が、「お前は毛が無いから怪我無くてよかった」とダジャレを言い、名雪さんは怒りのあまり受話器を叩きつけそうになった。
しかし帰国後に実は部長が電話口で泣いていたことを知らされたという。

部下を危険な目に合わせたくない、死なせたくない。
しかし行かせないと仕事にならない、報道の仕事の一番つらいところだ。

「真実を世界に伝えるために」ルーマニアへ

名雪さんが陸路で撃たれたので、我々は空路でルーマニアを目指すことになった。
入国ビザは一応持っていた。
プラハのルーマニア大使館に行くと人気(ひとけ)がない。
大使以下、チャウシェスク系の外交官はすでに逃げ出していたのだ。

一人だけ若い書記官が残っていて、「ルーマニアに行って真実を世界に伝えてくれ」と言い、パスポートにビザのスタンプを押してくれた。

大統領支持集会が一時反政府集会に
大統領支持集会が一時反政府集会に

12月16日、西部ティミショアラで行われた民衆デモは、その後全土に広がった。
21日、チャウシェスク大統領にデモ隊への発砲を命令された国防相が拒否したため、国防相を処刑、これにより軍が大統領に反旗を翻して、反体制派の救国戦線と行動を共にした。
これで勝負あった。

12月23日にチャウシェスク夫妻は逮捕、25日に処刑された。

処刑されたチャウシェスク大統領
処刑されたチャウシェスク大統領

その日、ルーマニアのブカレスト空港はまだ閉鎖されていた。
混乱はまだ続いていたからだ。
通訳さんに聞くと、オーストリアのウイーン空港に行けば、軽飛行機のチャーター会社がいくつかあって、命知らずのパイロットがいるので、金を積めば飛んでくれるかもしれないということだった。

命知らずな人の操縦する飛行機に乗るの嫌だな、と思いながらプラハからウイーンに飛び、空港で探すと、ある会社が飛んでくれると言う。
サイテーションという小型機で、確か4人で1万ドル払った。

通訳さんが「危ないと思ったら逃げなさいよ」と言って、陶器でできたチェコのお守りをくれた。正直怖かった。チャウシェスク政権は崩壊したが、国内はまだ相当混乱しており、飛行機が着陸できる保証もないのだ。カメラマンが最後の晩餐かも、と言い出したので、奮発して日本料理屋に行き皆でウナ重を食べた。

翌26日早朝、飛行機に乗ると1時間ほどであっけなくブカレスト空港に着いた。空港は公式には閉鎖されたままで、定期便は飛んでなかったが、パイロットが「ジャーナリストだ」と言ったら管制は着陸を許可してくれたそうだ。

空港はがらんとしてタクシーもバスもない。もちろんレンタカーもない。もともと鎖国に近い国だったのだ。マイクロバスが止まっていたので運転手に頼み込んで無理やり乗せてもらい、ダウンタウンに行って取材を始めた。英語が全く通じない。ルーマニア語はイタリア語に近く、片言のフランス語でインタビューしたり、リポートをしたりして、東京に衛星中継で送った。

中継はルーマニア国営テレビ局からやったのだが、武装した兵士が建物を厳重にガードしており、何度かの検問を受けてようやく衛星伝送の部屋に着いた。軍も参加した救国戦線は革命にあたって、大統領府の建物などとともにテレビ局を直ちに押さえたのだ。

海外メディアで一番乗りだったという英国のITNが広いスペースを確保し、「First in!last out(一番乗りだ!そして最後までいるぞ)」と張り紙をしているのはかっこよかった。中継は彼らの機材を借りた。

「遅かったな」とドヤ顔で声をかけてきたITNのエンジニアが、何かおいしそうにもぐもぐ食べている。「それ何?」と聞いたら「ラルド。食べてみて」と言って一切れくれたので、口に入れてゲッとなった。肉の脂身だった。

エンジニアはルーマニア人に教えてもらったそうで、このあたりは冬は寒いのでエネルギー補給に脂身を食べるのだという。
まずかったが我慢してごくりと飲み込んだ。

その年のルーマニアの冬は寒く、氷点下20度近かった。
顔が痛くなるほどの寒さは初めての経験だった。
鎖国をしていたルーマニアは貧しい国で、道路や建物は古く汚かった。
国際電話が通じるのはインターコンチというホテルだけで、不便な生活だったが、食事はあの脂身以外はおいしかった。

脂身をくれた英国人エンジニアに「ルーマニアのメシはうまいね」と聞いたら、「ルーマニアは東欧で唯一のラテン民族の国だから」と教えてくれた。
やはりアングロサクソンの人はラテンの方がメシがうまいと認めているのか。
1週間ほど取材を続けているうちに落ち着いてきて、空港も開いたのでジュネーブ支局から応援がやって来たのを機に、いったんプラハに帰った。

バス停で助けてくれたプラハの美女

プラハ空港に着いて困ったことになった。預けた荷物が出て来ない。しょうがないのでホテルへの配達の手続きをして外に出て気が付いた。うっかりしてチェコの通貨コルナを、預けた荷物に入れてしまっていたのだ。財布には米ドルとルーマニアのレイしかない。

タクシーだとドルでも払えるのだが、深夜でタクシーが全くおらず、バスしか走っていない。困ってバス停でボーッと立っていると、まるで映画のように、若く美しい女性が現れ、「何かお困り?」と聞いてきた。事情を話すとバス代(10円くらいだった)を貸してくれるという。

ミレーナというその女性とバスの中で話すと、彼女はスロバキアのブラチスラバという町の出身でお母さんはそこで美容院を開いている。彼女はプラハの美術大学の学生で、今日は実家から帰ってきたところだった。

バス代のお礼に明日の夕食をいかが、と誘うと、プラハに中華料理屋が2軒だけあり、そこに前から行ってみたかった、あんたは日本人で詳しいだろうから連れて行ってくれ、と言う。日本と中国を一緒にするなと思ったが、喜んで一緒に行くことにした。

残念ながら中華料理はあまりおいしくなかった。彼女は料理にあまり手を付けず、なんとなく決まずくなって、店の前で別れた。
それっきりである。

後から通訳のおばさんに聞くと、もう1軒の方はシェフが中国人なのでうまいが、あんたが行った方はウクライナ人がシェフだからまずいよ、と教えてくれた。先に教えてほしかった。

まずい中華を食べながらミレーナに「ビロード革命をどう思う」と聞いた。
「母は興奮してたけど、私には正直よくわからない」と言った後、彼女は「でもこの国のことを誇りに思ってる。将来はイラストレーターになりたい」と嬉しそうに付け加えた。

社会主義の終焉

ルーマニアのチャウチェスク大統領の処刑が決定し喜ぶ市民
ルーマニアのチャウチェスク大統領の処刑が決定し喜ぶ市民

まもなく年が明けて1990年になった。
これほど寒い年越しは初めてだった。
東欧の国々は寒く貧しくて汚れていた。
社会主義政権は環境保護に熱心でなく、東欧のパリと呼ばれる美しいプラハでさえ街がスモッグで煤けていた。

ただ民主化が行われたという高揚感は東欧全体に満ちており、それはどんな寒さも貧しさも吹き飛ばす力を持っていた。どこの国の人達も誇らしげに胸を張っていた。
社会主義は終わったのだ。
あとは中国だけだが、いずれ共産主義を捨てるだろう、とその時は思った。

東西の壁がなくなることによってその後の欧州は強くなる。
ドイツなどは東欧に工場を作って労働者を雇い、彼らは新しい消費者になった。
90年代は欧州の時代だった。

しかし2000年代に入ってあちこちでひずみが出てきた。
移民に仕事を奪われた人が怒りだし、社会の格差がじわじわと進んだ。
中東のテロにも苦しんだ。

欧州は今、政治の混乱に直面している。
ロシアも民主国家とは言い難い。
そして中国は共産主義を捨てるどころか、政治改革は進まず、軍事、経済ではその力をひたすら膨張させ続けている。

ミレーナはイラストレーターになれたのだろうか。
寒い東欧で民主化の高揚感に震えていたあの頃、30年後の世界がこんな風になろうとは全く想像できなかったのだ。

【執筆:フジテレビ 解説委員 平井文夫】

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平井文夫
平井文夫

言わねばならぬことを言う。神は細部に宿る。
フジテレビ報道局上席解説委員。1959年長崎市生まれ。82年フジテレビ入社。ワシントン特派員、編集長、政治部長、専任局長、「新報道2001」キャスター等を経て現職。