「娘を嫁に出すような感じですね」—そう語るのは、38年間大切に保管してきた食堂車を手放すことを決めた山崎賢一さんだ。かつて国鉄時代に全国の特急列車で活躍し、現存する最後の食堂車が、2025年12月、小松に向かった。岩手県盛岡市から石川県小松市への長い旅路の背景には、「能登半島地震からの復興に役立ててほしい」という山崎さんの熱い思いがあった。
唯一残された国鉄時代の食堂車「サシ481-48」

岩手県盛岡市上太田の建設会社敷地内に38年間保存されてきたこの食堂車は、1972年に製造された。国鉄時代、東北本線の特急「やまびこ」の食堂車としてデビューした。同形式の食堂車は、北陸を通り大阪から青森までをつないでいた特急「白鳥」や「雷鳥」などでも活躍し、多くの乗客に利用されてきた。

この車両、正式名称「サシ481-48」は、国内で活躍したこの形式の食堂車のうち現存する唯一の車両だという。その希少価値を知る鉄道愛好家にとって、この車両の存在は特別な意味を持つものだった。

車両の所有者・山崎賢一さんは、引退後にこの食堂車を買い取り、一時は喫茶店として活用。その後は物置として利用してきた。山崎さんにとって、この食堂車には特別な思い出があった。

「一番思い出にあるのは、友達が結婚するというので、ここで披露宴をやったことですよ」と山崎さんは懐かしそうに語る。
「能登半島地震」が結んだ岩手と石川の絆

この食堂車の譲渡を依頼したのは、鉄道愛好家で作る小松市のNPO法人「北国鉄道管理局」の代表・岩谷淳平さんだ。岩谷さんは2年以上前から度々、山崎さんのもとを訪ね、食堂車の譲渡を依頼した。

「県内でも特急・白鳥や雷鳥などに連結し走っていた思い出の食堂車を観光に生かしたい」と考えた岩谷さんは、2023年の年末、山崎さんに譲渡を持ちかけた。当初は躊躇したという山崎さんだったが、その決断を大きく左右する出来事が起きる。

2024年1月1日、能登半島地震が発生した。この震災をきっかけに、山崎さんの迷いは吹き飛んだという。

「石川県の能登半島地震で、みなさん悲しんでいるところに、これを持っていけば子どもたちも夢が広がるんじゃないかなぁ」と山崎さんは語る。

この決断の背景には、東日本大震災の経験も影響していた。岩谷さんは当時の会話をこう振り返る。
「元日の夕方6時半か、7時くらいのことだったと思います。今でも鮮明に覚えているのは、やっぱり能登半島地震、復興に何年もかかるのはわかっているんだと、実感を込めて山崎さんの方から東日本大震災のことをお話し頂きました。」

そして山崎さんは、この食堂車を無償で譲渡することを決断した。
「復興に役立つのであればということで差し上げますと話をした。まぁ娘を嫁に出すような感じですね」

クラウドファンディングで集まった681万円
岩谷さんが運営するNPO法人では、これまでにもボンネット型の特急車両を復元し、小松市内の公園に展示する取り組みを行ってきた。岩谷さんは食堂車を修繕した後、最終的にはボンネット型の車両と連結する形で展示することを目指している。

「大事に使うことができると思うので、本当、頑張って修理させていただいて、想いを繋いでいくというのが僕の夢ですね」と岩谷さんは話す。

小松への移送のための費用はクラウドファンディングで調達。681万円が集まり、陸送の許可が下りた2025年12月、いよいよ運び出されることになった。

しかし、搬出作業は容易ではなかった。喫茶店として使う際、台車の車輪と線路を溶接していたため、それを外す作業が必要になるなど、作業は丸一日を要した。長さ20メートル、重さ28トンの車体は、作業開始から6時間後、クレーン車によって吊り上げられた。

小松に到着!新たな旅路の始まり
吊り上げられた車体はトレーラーの荷台に収められ、午後9時、食堂車を乗せたトレーラーは秋田港へと向かった。そこからフェリーで福井県敦賀港へ渡り、12月12日の午前、岩谷さんが管理する小松市の土地に到着した。

「無事に小松まで到着しまして、あと一息のところできました。最後まで事故がないように、ケガのないように精一杯つくさせて頂ければ盛岡の方にも報いることができるのかなと」と岩谷さんは安堵の表情を見せた。

到着した食堂車は二つの大型クレーンを使って吊り上げ、敷地内に設置したレールに乗せる作業が行われた。想定よりも車両が重かったことから、バランスを取るためクレーン車の位置をずらすなどもあったが、約2時間かけて無事、設置が終了した。

「本当にスタートラインに立たせて頂いたなってことで本当にほっとしました」と岩谷さんは胸をなでおろした。

往年の食堂車の復活を目指して
時を経て、車体にはサビによる穴があくなど腐食が進んでいる。岩谷さんはまずは雨漏りを直し、車両の内部を清掃するなどした後、改めてクラウドファンディングを行い、在りし日の食堂車の復活を目指す。

「形あるものですからどうしても劣化はしますし、それに対して修理すれば必ずきれいになるというものでもございます。鉄道ファンの方、あるいはSLを知っている世代の方、国鉄を知っている世代の方、少しずつ少なくなって参ります。そういった方々のご協力を仰ぎながら昭和の文化、20世紀の時代というものを紡ぎ続けてつなぎ続けて架け橋にしたいと思っています」と岩谷さんは熱く語った。

この食堂車の原型を作ったのは、実は日本のホテル王とも呼ばれた帝国ホテル社長の犬丸徹三さんと言われている。犬丸さんは小松市の隣、能美市の出身であり、そんなゆかりもあって岩谷さんは食堂車の復活を自分の使命だと感じているという。今回、食堂車の修繕を小松で他の鉄道愛好家と共に行う予定で、技術の承継も目指している。

乗りものの町、小松に新たに加わった昭和の遺産。岩谷さんは子どもからお年寄りまでが笑顔で集っていた食堂車の復活を目指し、この先も活動を続けていく。
「能登半島地震がきっかけでこのご縁をいただいた。何かこの電車がもたらすもの、架け橋になるものが多々あると思います」

二つの被災地をつなぐ架け橋となった一両の食堂車。その新たな物語は、ここ小松からまた始まろうとしている。
(石川テレビ)
