「バカヤロー」と怒鳴っていたオジキ

 
 
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「ニュースJAPAN」という番組のデスクだったモリちゃんから「オジキが亡くなりました」というメールが来た。オジキというのは放送作家、高橋修さんのあだ名で、7月5日にすい臓がんで亡くなったという。

葬儀でお坊さんのお経を聞きながら、23年前に初めて会った時のことを思い出した。当時フジテレビ政治部の自民党キャップだった僕は、突然の異動で全く畑違いの「ニュースJAPAN」という番組のプロデューサーになった。

その時のニュースJAPANは深夜にもかかわらずキャスターは安藤優子さんと木村太郎さんという豪華版、視聴率もよく、いいスポンサーがついて予算も潤沢という番組だったので正直荷が重かった。何より前任のプロデューサーK氏をはじめスタッフの柄が悪く、いつも「バカヤロー」と怒鳴りあっており、うまくやっていけるかどうか不安だった。

K氏は柄は悪いが親切な人で、事細かく引き継ぎをしてくれたのだが、その時にフリーランスのスタッフ6人のリストをくれて「こいつらはいろいろうるさいことも言うが極めて優秀だから絶対に放すな」とアドバイスをしてくれた。

番組ではプロデューサーが交代するとスタッフの中には辞めてしまう人がいる。僕のプロデューサー初仕事はまずこの6人をつなぎ止めることだ。早速一人ずつ会って話をすることにしたのだが最も気が進まなかったのがオジキだった。オジキはKさんとともにしょっちゅう「バカヤロー」と怒鳴っていたからだ。

会って話してみるとオジキは決して乱暴でなく、むしろ人なつっこい人で、ニュースJAPANがどんな番組で、どんな事をやるべきなのかを語り始めた。

当時1996年は沖縄で米兵の少女暴行事件があり、日米地位協定の見直しや基地の縮小などが大きなテーマになっていたのだが、オジキは「沖縄と言えばすぐ米軍基地撤去の話だろ?それだけじゃダメだ。なんで沖縄の経済振興の話をしねえんだ。人と違う視点持つのがJAPANだよ」と言ったのを覚えている。その後もオジキの話は深夜まで延々と続いた。

一人ぼっちで逝った男

 
 

葬儀はお経が終わり親族の挨拶の時間になった。オジキは独身で、高齢のお母さんは施設に入っており、一人ぼっちで亡くなった。平日の午前中ということもあり参列者も十数人の寂しい会だった。挨拶する親族がいなかったので代わりに最後までオジキの面倒を見たディレクターの片山智義さんが挨拶した。

片山さんは「初めて仕事した時に、打ち合わせを始めると延々しゃべり続け、最後はギリシャ神話の話になった。10分くらいの企画なのにいったいいつになったら原稿書いてくれるんだろうと心配になった」と思い出を語ったので、オジキは誰が相手でも延々と語っていたんだなと嬉しくなって、葬儀なのに思わず笑ってしまった。そしてその後涙が出た。

オジキというアダ名の由来は、任侠の世界で目上の人をオジキと呼ぶことから来たらしい。言われてみればK氏がくれたリストの6人衆はいずれも任侠の雰囲気を漂わせており、一度誰かの結婚式に行った時、皆で黒のスーツを着ていたら、安藤優子さんに「あんたたち、怖いわよ!」と叱られていた。

しかしこの6人は付き合ってみると気持ちいい奴らで、仕事もできる。幸い全員残ってくれたので、彼らとは毎晩のように飲みに行った。飲むと言っても番組終了が夜の11時40分。それから明日の準備などして会社を出るのは早くても1時前である。当時フジテレビは新宿の河田町にあったので、そこから四谷しんみち通りなどの飲み屋で飲むと、夏などは帰る頃には明るくなることもあった。

凡人とは異なる眼力

 
 

ある日オジキが飲み屋で「平井ちゃん、許家屯の『香港回収工作』読んだかい」と言う。何かと聞くと、亡命した元新華社香港支局長の書いた本で、香港返還の内幕を書いた本だという。この話を中心に巨大になりつつある中国の未来と、その危険性を特集にしようというのだった。

1996年当時の中国は経済が右肩上がりではあるものの、GDPで日本を抜くのはまだ10年以上先であり、我々は脅威とは認識していなかった。ただ尋常でない潜在力を持っており、鉄鉱石、石油、食料の輸出が急増し、すでに巨大化の萌芽は見えていた。

しかし私を含めメディアの思考は7年前の天安門事件で止まっており、中国の政治改革が進まないのはけしからんということばかり言っていた。オジキは中国の怖さは政治ではなく経済だと言うことを見抜いていて、世界に対する経済的脅威にいずれなる、という特集をやりたいという。

結果的に「新中国人」と名付けたこの企画は10本作り、視聴率は並だったが、内外から高い評価を得たし、僕もプロデューサーとして本当の初仕事がうまくいき、自信になった。

オジキの視点は我々凡人と違って実に鋭かった。言葉の端々から想像するにその源泉はどうやら豊富な読書量にあるようだった。僕も相当の読書家なのだがオジキも結構なもんだなと思い、聞いてみると「平井ちゃん、1週間に必ず1冊読むって決めてみなよ。年52冊で、10年続けたら520冊だ。毎晩酒飲んでるだけの奴に520冊分の差がつくぜ」と言われ、なるほどと思い、その日からずっと週に1冊読んでいる。あれから23年だから、1000冊以上読んでいるが、差はついたのだろうか。。

アグレッシブでピンピン跳ねる文章

高橋修さんから頂いた万年筆
高橋修さんから頂いた万年筆

ある夜、ちょっと酔ったオジキが突然モンブランの万年筆をくれた。オジキは皮のケースに高価な万年筆を何本も入れていたのだが、僕にくれたのもそのうちの1本で2-3万円する奴だった。オジキは「平井ちゃん、いい万年筆で書くといい原稿が書ける気がしないか」と言って、くれた。

オジキが亡くなった後、ニュースJAPANの仲間に「俺、オジキから万年筆もらった」と言ったら、皆が「ウソー、私たちオジキの万年筆にあこがれて金ペン堂に買いに行ったよー」とうらやましがられた。神田にある金ペン堂という頑固おやじがやっている万年筆屋の常連だったオジキはJAPANの仲間に紹介していたらしい。なぜオジキは僕だけにはモンブランをくれたのだろう。

オジキの原稿の好きなところはアグレッシブでピンピン跳ねるような勢いがあるところだった。もらった万年筆をさわりながら、僕にもあんな原稿書けるようになるかなと思ったりしている。オジキ、いろいろありがとうございました。僕の原稿も少しはうまくなったかな。一人ぼっちで死んじゃったから寂しかっただろ?まあいずれ僕らもそっちに行くから、先に飲んでてくれ。とりあえずさようなら。

【執筆:フジテレビ 解説委員 平井文夫】

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平井文夫
平井文夫

言わねばならぬことを言う。神は細部に宿る。
フジテレビ報道局上席解説委員。1959年長崎市生まれ。82年フジテレビ入社。ワシントン特派員、編集長、政治部長、専任局長、「新報道2001」キャスター等を経て現職。