鹿児島県十島村の悪石島についてお伝えします。
2025年6月以降、群発地震にみまわれた悪石島ですが。島外避難を経て住民たちは再び島での生活を取り戻しつつあります。トカラで生きる人々の誇りを見つめました。
鹿児島市から南へ約250キロ、10時間の船旅の先に見えるのは、悪石島です。
十島村に7つある有人島の一つで、43世帯90人が暮らすのどかな島です。
しかし、2025年6月以降、かつて無い回数の群発地震に見舞われました。
震度1以上の揺れは2300を越え、2カ月前には…
7月3日午後4時13分ごろ、震度6弱の大きな揺れを観測。
ひしゃげたガードレールに崩壊した斜面。
先祖が眠る墓石も倒れました。
村は島外避難を実施、住民の半数を超えるのべ56人が一時、島を離れました。
島外避難者
「不安で夜も眠れなかった」
その後、地震活動は少なくなり、今は全員が島での暮らしを再開しています。
島で生まれ育ち、畜産業を営む坂元裕幸さん(51)です。
坂元さんは震度6弱の地震の後も、避難はせず島に残りました。
坂元裕幸さん
「経験したことのない揺れでした。餌やりや分娩(ぶんべん)もある。残らないと死んでしまう」
飼育する40頭ほどの牛の中には生まれたばかりの子牛もいて、朝夕2回の世話が欠かせません。
妻と5人の子供を避難させ、ひとり島に残りました。
坂元さん
「(牛は)我が子だし、生活のすべてなので。牛がいないと生活ができない」
震度6弱のあと、5強の揺れにもみまわれた悪石島。
「島での生活を守る」
坂元さんの決断にはこんな思いがありました。
民宿を営む西恵子さんも島に残った一人です。
今から25年ほど前、旅行で訪れたこの場所で夫の茂久さんと出会い、結婚。
西恵子さん
「(夫が)調理の勉強をしていたので私はそれに釣られた。」
揺れが活発な間は民宿も休みましたが、夫と島に残った理由は。
西恵子さん
「とにかく無人島にしたくなかった、それが怖かった。元の生活に戻れないかもしれない。島中が大きな家族のようで子供たちやみんなのふるさとを守らないといけない。そのためには島に居続けないといけない、島外避難はできないなと思った」
終わりの見えない地震の恐怖、それぞれが受け止め乗り越えてきました。
7日、島の港はいつもと違っていました。
到着した船から降り立つのは多くの観光客たち。
旅の目的は。
奄美大島から来島
「ボゼツアーです」
埼玉県から来島
「ボゼが見られると聞いて、とんでもないものがあると聞いて」
悪石島に伝わる仮面神「ボゼ」。
旧暦のお盆の最終日、3人の神様が悪霊を追い払うとされる伝統行事です。
2018年にユネスコの無形文化遺産に登録された、まさに島民の誇りです。
鹿児島市から帰省
「世界遺産だから楽しんでほしい。心底そう思います」
悪石島学園ALT ジョージ・ブロックさん
「(地震で)睡眠不足やストレスを溜めたが、ボゼを楽しみにみんなワクワクしている」
島の自治会長を務め、ボゼを中心的に取り仕切る坂元勇さんも、2025年のボゼに特別な思いを寄せます。
悪石島の自治会長・坂元勇さん
「先祖代々大切にしてきたボゼを私たちが引き継いでいますと、全力でお見せしたいと思います」
そして迎えた夕暮れ時。
島民が盆踊りで先祖の霊に祈りを捧げます。
踊りも終わり、いよいよその時。
打ち鳴らされる太鼓を合図に、3人のボゼが勢いよく走って現れ、集まった島民を追いかけまわします。
ギョロっとした大きな赤い目と口。
全身をビロウの葉っぱで包むその異様な姿に、泣き叫ぶ子供の姿も。
ボゼが持つ木の棒で赤土を付けられると力を分けてもらえるとされています。
島民も島外の人も、悪石島の誇り「ボゼ」の熱にわいていました。
熊本県から来島
「島が好きになったのでまた来ようと思う」
石川県から来島
「島のみなさんのボルテージが上がっていって、この伝統をこれからも続けてほしい」
島民
「すくすくと元気に育ってもらいたい」
ジョージ・ブロックさん
「すごくよかった。楽しいという気持ちしかない」
島民
「ボゼがないと悪石島じゃない」
西恵子さん
「ずっとずっと守り続けます」
悪石島の自治会長・坂元勇さん
「島民が疲弊した状態で精神的にも苦しい時期が長かっただけに、ボゼを盛大にできたのはありがたい、ボゼのおかげだと思っています。悪石島の住民が一つになっていこうと決意が固まった」
トカラ列島の一つ、神が訪れる島、悪石島。
いまだに群発地震は収束していません。
それでも島の人たちはふるさとを愛し、災害にも手を取り合って立ち向かう、そんな強い意志をもって生きています。