特攻隊員として、戦時中、鹿屋に配属された茶道裏千家の前の家元、千玄室さんが8月14日、102歳で亡くなりました。
22日は、千さんが戦争について語った数々の言葉を振り返ります。
特攻隊員だった茶道裏千家 前家元・千玄室さん
「なぜあの時に私は出撃が取り消されて。それがもう悔しくて悔しくて。ここまで生きてきて、なおそれがこびりついている」
行き場のない思いをずっと抱えて生きてきた一人の元特攻隊員がいました。
千玄室さん、当時92歳。
千利休から数えて15代目となる茶道裏千家の家元です。
千さんには戦時中、特攻隊員として、海軍の串良航空基地に配属された過去がありました。
特攻隊員だった茶道裏千家 前家元・千玄室さん
「『あなた方にはもう10カ月間しか教える期間がない』と。『だから10カ月間で全部飛行機の技術を覚えろ』と。そんなむちゃくちゃな。バーンと殴られて血だらけになりながら操縦かん握って。みんなね。」
訓練中は、地獄のような日々を過ごした千さん。
「飛行機の作業で降りてきたら『千よ、なお、おい、お茶にしてくれや』飛行服のままであぐらかいて、みんなお茶を。『ああ、うまいなあ』もう殴られたこともみんな忘れてその一碗(わん)のお茶で。『ああ、生きたいなあ、生きたいなあ』って」
もっと生きたいー
これが、当時は遺書に書くことができなかった若き特攻隊員たちの本音でした。
千さんには、出撃前に転属命令が出されそのまま終戦を迎えましたが、多くの仲間が帰らぬ人となりました。
戦後の千さんは、仲間の思いも胸に、「一椀(いちわん)からピースフルネスを」を合い言葉に、世界中で平和を訴え続けてきました。
そんな千さんには鹿屋に来ると決まってお茶を点てる茶わんがあります。
戦友の森丘哲四郎少尉の遺品です。
2024年10月、鹿屋市で行われた慰霊祭でも、いつもと変わらずこの茶わんでお茶を点てましたが、周囲には「きっとこれが最後だ」ともらしていたそうです。
言葉どおり、最後の訪問となったこの時、千さんは鹿屋市が回したカメラの前で、戦時中の鹿屋について自ら証言を残したそうです。
撮影を担当した 鹿屋市ふるさとPR課・櫛間崇史さん
「取材そのものに1年くらい調整をかけて『鹿屋市のためだったら』と取材を受けていただけたことが本当にご縁だと思っている。その中で短い時間だったが60分という限られた時間を目一杯たくさんのエピソードを話してくれたことが特に印象に残っている」
千さんの映像は、この夏開かれた戦後80年特別展で公開され、多くの市民の心を打ちました。
鹿屋市民
「すごく悲しい。鹿屋のこともだし、すごく日本の平和を願ってずっと活動されていた方なので 残念だなという気持ち。偉大な方だなあ、思いを引き継いでいけたらなと思う」
千玄室さんは80回目の終戦の日の前日となる8月14日に呼吸不全で亡くなりました。102歳でした。
生前、私が「平和のために私たちにできることは何ですか?」と尋ねると、千さんはこう答えてくださいました。
「本当に心から祈ってあげてください。祈ってあげてください。まず祈ってあげて。そういう気持ちを持っていただく人が増えれば増えるほど、ずっとその手のつながりが 温かい手のぬくもりが世界に通じていきますよ」
千玄室さんのこの言葉を私はこれからも忘れません。