テレビ宮崎では、シリーズで、「戦後80年 〜過去を知る 未来に伝える〜」をお伝えしています。
8月15日は、森山記者とお伝えします。
太平洋戦争の開戦前、「戦争に勝ち目はない」と分析した、秋丸機関という陸軍の研究班があったんですね。
(森山記者)
中心人物だったのは、えびの市出身の男性でした。
この男性の息子から見た父の姿、戦後発見された貴重な資料、そして研究者の分析から、私たちが次の世代にどう伝えていけばいいのか。
終戦から80年が経った8月15日、考えます。
(秋丸 信夫さん)
「私が生まれたところは満州。親父は出征しとった。南方に」
秋丸 信夫さん、87歳。
(秋丸 信夫さん)
「その間、親父はずっといないんだから。(Q.記憶は?)ないないない、全然ない」
信夫さんは、終戦の半年前6歳で、父親の出身地・えびの市に疎開してきました。
(秋丸 信夫さん)
「うわぁ暑いね。中にいると全然わかんない、この暑さがね」
(秋丸 信夫さん)
「これが全部」
(秋丸信夫さん)
「この写真はね、昔からあったの、家に。なんでこんな写真があるんだろうかと。それが後になってわかるのね。これが結局ね、秋丸機関」
秋丸機関。
開戦間近の1940年1月、陸軍に、日本をはじめ、アメリカ、イギリス、ドイツなど主要国の経済力を調査・研究する機関がつくられました。
「陸軍省戦争経済研究班」、通称「秋丸機関」です。
(森山 裕香子記者)
「東京大学に来ています。こちらには、太平洋戦争開戦前、秋丸機関がまとめた調査報告書が保管されています」
東京大学経済学部資料室に調査報告書が残されています。
取り出された資料は2つ。
「英米合作経済抗戦力調査」の「其一」と「其二」。
「其二」には、「極秘」「陸軍省戦争経済研究班」の文字。
色褪せることなくしっかりとそう書かれています。
秋丸機関が、およそ1年半かけてイギリスとアメリカの経済力を調査し、戦争の見通しをまとめた報告書です。
(秋丸 信夫さん)
「これが次朗さんね、この班が英米班」
真ん中に映っているのが信夫さんの父、秋丸 次朗です。
陸軍省戦争経済研究班の班長だったことから、秋丸機関と呼ばれるようになりました。
(秋丸 信夫さん)
「うちの親父が、そんな大変なことをするはずはないと思ってたから。こえたん(農具)を担いでるおじさんがさ、百姓のおじさんがさ、戦争をするかしないかという調査をすると思う?」
飯野村、いまのえびの市に生まれた次朗は、関東軍の経済参謀として満州へ。
その後、秋丸機関創設のため日本に呼び戻されました。
「其一」には、イギリスとアメリカの経済力の大きさが、「其二」には、弱点が記されています。
日本の経済力も分析・比較し、アメリカとの戦争に勝ち目はないと導き出していました。
(秋丸 信夫さん)
「色んな人からさ、(報告書が)受け入れられていたら、いまの日本なんて戦争に負けないで、もっと平和になってるんじゃないかって言われる。そうじゃなくて、歴史に「もし」はないわけですよ」
秋丸機関について研究している、慶應義塾大学 経済学部の牧野 邦昭教授です。
(慶應義塾大学 経済学部 牧野 邦昭教授)
「ある意味では、(当時)みんながある程度の正確な情報がわかっていたのにもかかわらず、戦争へと向かっていってしまった、ということを知るうえでの重要な資料だと思う」
秋丸機関について、次朗は長く語ろうとしませんでしたが、終戦から34年がたった81歳の時に、その時の心情を明かしています。
「すでに開戦不可避と考えている軍部にとっては都合の悪い結論であり、消極的平和論には耳を貸す様子もなく」
「大勢は無謀な戦争へと傾斜したが、実情を知るものにとっては薄氷を踏む思いであった」
「陸軍は秋丸機関の調査を無視して開戦に踏み切ってしまった」とされてきました。
これに対し、牧野教授は「報告書は正確に戦争の困難さを指摘していたのものの、別の形で解釈され開戦の判断材料になってしまった」と分析します。
(慶應義塾大学 経済学部 牧野 邦昭教授)
「日本は、近代に入ってから負けたことがなかった。負けたことがなかったからこそ、最悪の結果を想定できなかった。我々は最悪の結果を知ってるからこそ、戦争をしないということを戦後ずっと続けてきた。正しい情報を得るだけではなくて、それをどう使うかという問題が、一番重要なのではないだろうか」
次朗は戦後、公職追放を経て、飯野町長を2期、えびの市の社会福祉協議会の会長を13年務めました。
(秋丸 信夫さん)
「戦争の遂行を止めることができなかったから、別のところで、国なり何なりに貢献しようとしたんじゃないかと」
次朗の三男である信夫さんは新聞記者となり、定年退職後、ブログで秋丸機関について発信してきました。
(秋丸 信夫さん)
「正史じゃないんでしょうね、傍史なんでしょうね。大東亜戦争という戦争の始まりから終わりまでずーっとあってさ、そんなかのほんのわき道なんだ。でも、そういうこともあったということも知ってもらいたい」
(慶應義塾大学 経済学部 牧野 邦昭教授)
「真剣な情報発信は、結果としては役に立たなかった。なぜ役に立たなかったのか、希望的観測に飲み込まれてしまったのはなぜなのかということを、反面教師的な形で活用していくというのが、秋丸機関を調べていく現代的意義なのでは」
(森山記者)
私は、父から秋丸機関のことを聞き、興味を持ちました。
戦争は遠い話だと感じていましたが、取材をして、情報の捉え方次第で戦争になってしまうと感じました。
秋丸 次朗さんは、晩年、「後世の為に何らかの価値あることを」と経験を綴りました。
正確な情報があっても、戦争に突入してしまった過去を、繰り返さないようにしなければなりません。