戦後80年を考えるシリーズ・平和の行方。4回目は戦争の記憶を後世につなごうと奮闘する若き学芸員の思いに迫ります。

島田市博物館課・岩崎アイルトン望 学芸員:
実際に原子爆弾の投下前に同じ重さの爆弾を積んでシルバープレートB29を運転して同じ重さの爆弾を投下したときに、どのくらいの操縦性なのかとか、落とした時にどういう弾道をその爆弾が描くのかなどをパイロットが訓練するために、このパンプキン爆弾を使いました

島田市博物館で現在開かれている企画展「戦争を忘れない-島田が歩んだ太平洋戦争-」。

市に残る戦争の記録を紹介しています。

企画したのは岩崎アイルトン望さん(28)。

4年前、学芸員になるために埼玉県から島田市へと移り住みました。

1945年7月26日午前8時34分、一瞬にして約50人の命を奪った1発の爆弾。

カボチャ色に塗装されていたことからパンプキン爆弾と呼ばれました。

島田市博物館課・岩崎アイルトン望 学芸員:
昭和20年7月26日に現在の島田市、当時 島田町に投下されたパンプキン爆弾の破片

戦禍を物語る数々の遺品。

今回、この展示を企画したのには、自身のルーツにも関わるある思いがあります。

島田市博物館課・岩崎アイルトン望 学芸員:
曾祖父が戦死したという話や父親が戦争に行っていた話を聞いて、漠然と戦争史に興味があった

曽祖父は太平洋戦争で戦死し、20年前に他界したイラン人の父はイラン・イラク戦争で従軍。

幼い頃から戦争を身近に感じてきました。

島田市博物館課・岩崎アイルトン望 学芸員:
戦争についての企画展は自分の人生で一度はやってみたかった。熱を入れて頑張ってつくった

島田市博物館課・岩崎アイルトン望 学芸員:
あちらがアメリカ軍の記録上、パンプキン爆弾が投下されて爆破したといわれている場所

パンプキン爆弾が落とされた島田市扇町。

爆心地のすぐそばに住む冨田昌弘さん(89)は、爆弾が投下された時のことを今も鮮明に覚えています。

岩崎さん:
爆弾が落ちた日 富田さんはどこにいた?

冨田さん:
授業が始まる前で自習をしていた。警戒警報がなると同時に、ゴーって音がして、爆弾が落ちた

幸いにして家族は全員無事だったものの隣に住んでいた同級生は命を落としました。

冨田さん:
私と同じ女の子がいて、その子が学校に行きそびれて。2つ上の兄もいて当時6年生。
(女の子とその兄)2人亡くなって

これまで戦争について人前で口にすることはほとんでなかったと言います。

冨田さん:
そういう話したくない。うちの子供にも話したことない。(Q.それはどうして?)
思い出したくない、言ってもわからないと思う

一方、同じく爆心地の近くにある寺 ・普門院。

曹洞宗 普門院・加藤良玄 住職:
曹洞宗の宗の横に穴が開いているが、爆弾が刺さった痕だと言われている

当時、敷地内にいた先代の妻が爆発に巻き込まれて犠牲になりました。

曹洞宗 普門院・加藤良玄 住職:
先代は子供はいなかった。一生懸命(寺を)守ってきた人たちが、一瞬のうちに、それも妻が1人で守ってる時に、そういう目にあったこと自体が非常にかわいそうという言葉では言い表せない

今回の企画展にあたって岩崎さんが大切にしてきたのは、戦争の爪痕を自らの目で見て確かめると共に生の声に触れることです。

島田市博物館課・岩崎アイルトン望 学芸員:
その人が覚えている色や臭い、その時の臨場感がより生だと伝わってくるので、すごく大事な記録だと思う

年々、薄れゆく戦争の記憶。

それは裏を返せば日本が平和であることの証でもありますが、岩崎さんは戦争が残したものと向き合いながら若い世代がその悲惨さを次の世代へと語り継ぐことがこの平和を守るためにも大切だと感じています。

島田市博物館課・岩崎アイルトン望 学芸員:
戦災に罹災したものが物語る歴史は、生の証言と同じ重み、説得力がある。次の世代の僕らが語り継ぎ、残していくことが必要

テレビ静岡
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