終戦から80年、戦争体験者の証言をシリーズでお伝えしています。今回は昭和20年8月5日、佐賀空襲の記憶です。終戦直前に佐賀を焼いた空襲は家族の運命を大きく変えました。空襲で弟を亡くした女性の証言です。
【田代多津枝さん】
「ああ、終戦があと何日早かったらその頃も早かったらねぇ、かわいい弟をですね、小学校の1年生だったでしょうその弟が空襲で亡くなったんですよ」
太良町に住む、田代多津枝さん89歳。
昭和16年、1941年、太平洋戦争が始まった当時、田代さんは現在の佐賀市諸富町、新北村の寺井津浮盃で暮らしていました。
戦争が始まって2年、田代さんが小学2年生のころ、父・下村敬太さんが第一補充兵として出征することになりました。
【田代多津枝さん】
「父が出征のあいさつをするとき私は涙が出てですね家の角に隠れたごとして涙を拭いて。父がそれに気付いたんじゃないでしょうか。『あんたが一番年上だからお母さんにちゃんとお手伝いばしてやらんぎいかんよ』と。それは本当に耳に残っています」
1944年、「三カ月の教育召集で久留米五十二部隊に入隊しその後北ボルネオ」と書いた葉書が父からの最初で最後の便りとなったといいます。
翌年、昭和20年1945年8月5日、田代さんが小学4年生のころ。夜中に空襲警報が鳴り響きました。
【田代多津枝さん】
「夜中の12時ごろでしたけどヨシが生えている堀の中に腰まで浸かってですねそして動くな動くなって。そしてその時はB29が空いっぱいというように飛んでました。」
佐賀市南部を中心に約30機の爆撃機から焼夷弾が投下された、佐賀空襲です。
【田代多津枝さん】
「ああ、家が燃えようって倉庫も燃えてる、って言ってですね。腰まで浸かった堀の中から見てました」
堀の中までは焼夷弾は落ちてこなかったといいますが、逃げ込むまでの間に、次男の弟・亀美夫さんに焼夷弾が襲い掛かりました。
【田代多津枝さん】
「ランドセルと防空頭巾の間に近くに落ちた焼夷弾の火の粉がちょうどその間中に」
やけどを負った弟・亀美夫さんは、県立病院に運ばれましたが、3日後の8月8日に亡くなりました。国民学校1年生。1学期だけの学校生活でした。
田代さんの母、愛さんがこの時の様子を戦争体験記につづっています。
「無(亡)くなる前日は高熱で、意識朦朧の中、眼鏡を掛けられたお医者さんを見て、『あっ、父ちゃんだ』と叫び、飛び起きた姿が、今も私の脳裏にこびり付いています」
【田代多津枝さん】
「かわいい弟をですね、小学校の1年生だったでしょうその弟が空襲で亡くなったんですよ」
約1時間半にわたる佐賀空襲で、443の家屋を焼き、死者は61人にのぼったとされています。
【田代多津枝さん】
「あめあられ、って言うでしょそんな風にもうバンバンバンバン降ってきたんです。それはもう本当・・・口では言い表せないような光景でした」
家も空襲で焼けてしまい、助けを呼ぼうと田代さんの母の実家である現在の太良町、竹崎に電報を打ちました。
【田代多津枝さん】
「竹崎はそれから1日ぐらい遅れて電報がついてから、『あら、やっぱりやった。あの方向は自分が見た場所と間違いなかったもんね』と祖父は言って電報が届いたらですね、すぐ船を仕立ててですよ諸富まで来てくれました」
佐賀空襲から10日経った昭和20年1945年8月15日、田代さんは諸富から身を寄せた太良町、竹崎で終戦の知らせを聞きました。
【田代多津枝さん】
「終戦になると聞いたときは泣いたですね、私。だいぶ泣いた。終戦があと10日早かったらね、って思うぐらいにあのときは4年生だったけどそんな思いをしたのは今でも覚えています」
【田代多津枝さん】
「とにかくもう二度と戦争をしてはいけないというのが私の気持ちです。絶対戦争はだめ。そして平和が何よりです。」