三陸復興国立公園のほぼ中央に位置する岩手県釜石市は、漁業はもちろん、橋野鉄鉱山をはじめ観光地としても知られる街です。
釜石市内には津波の被害を伝える地名があります。その由来を探ります。
まずは釜石の地名の由来について、長年にわたり県内各地の地名について調査している宍戸敦さんは次のように説明します。
宍戸敦さん
「釜石という地名は、江戸時代の前・慶長6年のころにはすでに記録に残っている。釜石に甲子川という川がある。その甲子川の上流の方に『釜石』という岩がある。これが釜石の地名の由来になったと言われている」
釜石市立鉄の歴史館には、この「釜石」という石が書かれた資料があります。
釜石市立鉄の歴史館 森一欽館長
「幕末の頃の釜石の西側のほう・甲子の絵図(甲子村絵図)の中に『釜石石』という石があるんですよ」
(※甲子村絵図:所蔵 釜石市立鉄の歴史館)
地図の中には確かに「釜石」という文字がありました。下には大きな石のようなものが描かれています。
釜石市立鉄の歴史館 森一欽館長
「これですね、洞泉地域というところがあるんですが、その場所に今もあります」
この「釜石」を探しに甲子川へ。
地元に住む釜石市文化財保護審議会・の委員の藤井サエ子さんに、「釜石」の場所を案内してもらい、川岸をしばらく歩いていくと、ごつごつした石・釜石に到着しました。
川の岸にある大きな石、釜石市の地名の由来となったその名も「釜石」。
“釜のような形の石”ということで名付けられたと伝えられています。
釜石市文化財保護審議会 委員 藤井サエ子さん
「私たち幼少の頃は、たくさんの子どもたちが集まって、この岩からこの川に飛び込んで遊ぶ場所でした。主に男の子ですね。女の子は下の方で遊んでいました」
釜石の由来となった「釜石」は、地域の人々の記憶に残る場所でした。
さらにもう一カ所、釜石市の鵜住居地区と両石地区の間にある「恋の峠」の地名の由来について紹介します。
宍戸敦さん
「地名で“恋”という字の場合は大方、越えるという意味を持っている。だから峠を越えるというのが字が変化して「恋の峠」ということになる。この恋の峠は、沿岸部なので津波がその峠を越えたとか、そういう伝説も所々残されている場合もある。いずれ津波の伝承として大切な地名だと思う」
恋の峠にある両石の津波記念碑は、明治29年と昭和8年に両石地区に押し寄せた津波の記念碑です。
これらの碑は、現在も地域に災害の教訓を伝えていると、この地域で津波の防災伝承を行う釜石市文化財保護審議会・副会長の瀬戸元さんは語ります。
釜石市文化財保護審議会・副会長の瀬戸元さん
「(3つ並ぶ記念碑の)真ん中が明治の津波記念碑です。“この恨みをなくしてはならない”、“このことを永く子孫に伝えよ”ということを残している、子孫に残した教訓碑。このことを学区内の子どもたちに長く伝えている」
東日本大震災の際、両石地区ではこの記念碑(標高約14m)を越える高さまで津波が到達したということです。
釜石市文化財保護審議会・副会長の瀬戸元さん
「ここの峠は“恋の峠”といいます。津波がこの峠を越えて“越えの峠”ということを話しても、『あの峠を越えるような大きな津波来るわけがない』と誰もがそういうふうに言います。けれど昔はここまで海だった。フジツボが付着している岩があったんです。だから、この辺まで海だったんだなというのが分かる。ここまで海だったということは、今回の津波の高さを見れば、間違いなく峠は越えるとわかる」
津波が越えたという「恋の峠」。
地名の歴史を知ることで、防災意識へとつなげることができます。