太平洋戦争末期、アメリカ軍は宮崎など南九州を標的にした上陸作戦を計画していました。作戦の詳細な記録と上陸に備えて作った旧日本軍の基地を取材し、感じたのは「恐ろしさ」でした。

(宮崎市バージニア市姉妹都市協会 石田 達也 会長)
「宮崎の私たち以下の世代の人たちが、生まれていなかったかもしれない。そうすると自分事のように感じて恐ろしい」

宮崎市で開催中の「マッカーサーと現代日本の夜明け」
ここにあるのは、太平洋戦争末期にアメリカ軍が極秘に計画していた宮崎と鹿児島への上陸作戦、オリンピック作戦の作戦書です。

(宮崎市バージニア市姉妹都市協会 石田 達也 会長)
「沖縄戦より多くのアメリカ兵が上陸してくる予定だった。」

作戦が実行されていれば、犠牲者は20万人以上に上ったといわれています。

(宮崎市バージニア市姉妹都市協会 石田 達也 会長)
「作戦書にはどういった地形か、どういった道があるか、どこが危ないか、そうしたことが細かに書き込まれている。」

アメリカ軍は宮崎の地形や日本軍の戦力を詳細に分析していました。

(マッカーサー記念館公文書専門官 ジェームス ゾベルさん)
「九州は沖縄に最も近いため、次の標的になっていました。宮崎のビーチは最適なのです。飛行機の上陸にも、海から物資の供給などをするにも。戦術的に上陸するのにとてもいい場所だったのです。」

(オカファー エニス 豪 アナウンサー)
「オリンピック作戦の形を色濃く残している場所が熊本県錦町にあるんです。見てみると山の斜面が掘られて洞窟のような形になっています」

(ひみつ基地ミュージアム 手柴 智晴 館長)
「人吉海軍航空隊が魚雷調整場として使用していた地下施設で、ここは基地の一部です。」

山の中に建設された人吉海軍航空基地。
アメリカ軍に分からないよう、基地には巨大な魚雷調整場が極秘に地下に作られ、約6000人の兵隊が配備されていたということです。無線室や作戦室なども当時のまま残されています。

(ひみつ基地ミュージアム 手柴 智晴 館長)
「あそこにある台座に、実はディーゼルの発電機を設置して発電をして電気を作って電信していた。排気ガスを排出するための穴というのが必要になってくる。排気ガスを外に出してフレッシュな空気を外から中に送り込んでいたんじゃないかなと想定できる。」

戦後、防空壕跡として集落のごみ捨て場となっていましたが、地元の有志による調査で旧日本軍の地下施設であったことが2015年にわかり、2018年からひみつ基地ミュージアムとしてオープン。現在は戦争資料の展示や平和学習などを行っています。

(ひみつ基地ミュージアム 手柴 智晴 館長)
「オリンピック作戦や、日本軍の防衛作戦が一般的に知られていない。8月15日に戦争は確かに終わりはしたが、もし終わっていなかったら、宮崎をはじめ南九州はどうなろうとしていたのかを是非知っていただきたい。戦争というものをしっかり理解して抑止力になっていくのではないかと考える。」

今、当たり前のようにある平和。沖縄での地上戦、広島、長崎への原爆の投下を経て
日本は降伏しオリンピック作戦も実行されませんでした。
作戦は1945年11月1日に実行される予定でした。

テレビ宮崎
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