「1個でも届けないかん」100年続く移動販売の思い
昭和から令和へ、形を変えながらも人々の暮らしに溶け込む移動販売の世界。
愛媛県松山市で「ぎょうせんあめ」を売り続ける竹田良一さん(71)は、母から受け継いだ商いを守り続けている。
「あめ~にぎょうせん、かたあめ~にぎょうせん」という懐かしい売り声は、今も松山の夏の風物詩だ。

優しい甘さ「ぎょうせんあめ」
竹田さんが軽トラックで販売する「ぎょうせんあめ」は、砂糖を一切使わず、麦芽にでんぷんを加えて煮詰めた天然由来の甘味料だ。茶色い飴は、練ると色が白くなり、子どもたちはそれを遊びにしながら食べる楽しさもあった。
「ほんのり甘い」と表現される優しい甘さは、初めて出会う人にも不思議と懐かしさを感じさせる味わいだ。

母から受け継いだ「売り声」と商いの心
竹田さんの母・雪枝さんは大正生まれ。10代で行商を始め、85歳で引退するまでリアカーを引いて松山市内を回り続けた。
その姿は松山の夏の風物詩として地域に親しまれてきた。
「優しい正直なお母さん。まっすぐな人間です」と竹田さんは母を振り返る。のどに負担をかけないよう、生の「売り声」ではなく録音した声を使うようになっていたという。
2011年に雪枝さんが亡くなった後も、竹田さんは母の声を流しながら一人で行商を続けている。

受け継がれるルートと変わる時代
「親が決めとるルートをずっと継続して回るようにしている」と話す竹田さん。
松山市とその近郊を約1カ月かけて1周し、夏の間に5〜6周する。しかし、母から引き継いだお得意さんたちも高齢化が進み、客層は変化している。
「5〜6年前と比べたら全然売れる数が違ってきてますけんね」「お年寄りが亡くなったりで減ってきよる」「前は4つも5つも買いよった人が3つに、2つに、1つでええ言うて減っていきよる」と、竹田さんは時代の変化を実感している。

昭和から続く愛媛の移動販売の歴史
昭和の時代、愛媛ではさまざまな行商が人々の暮らしを支えていた。松前町の魚売り「おたたさん」は愛媛を代表する行商で、頭上に桶を載せて魚を売り歩く姿が見られた。
愛媛県歴史文化博物館の松井寿学芸員によると、昭和20年代には100人もの「おたたさん」がいたという。しかし、交通や流通の発達により、昭和50年代以降、行商は次第に減少していった。

時代と共に変わる移動販売の形
また、たこ焼きの移動販売「八ちゃん堂」は1970年代後半に松山に登場。特徴的なテーマソングと大量のキャベツを使ったたこ焼きは、世代を超えて愛されている。
「小さい時から八ちゃん堂しか食べない」「車で回りよって小さい時は追わえてた」と、60代の夫婦は当時を懐かしむ。

「1個でも届けないかん」商いの原点
竹田さんが売れない日に思い出すのは、母・雪枝さんの言葉だ。「1個でも届けないかんぞ」「売れんかっても回れ」。
「1年に1回会いますけんね。お父さんまだ元気でやりよるな、あいさつがてらお互いが顔を見る感じ」と竹田さんは行商の意義を語る。「母親も85歳までリアカー押してやりよったけんね。自分も負けんように」と、まだ母には及ばないと謙遜する。

移動販売は「一期一会」
町から町をめぐる移動販売は「一期一会」の場。
人と人とのつながりが世代を越えて育まれ、「あめ~にぎょうせん」という雪枝さんの声とともに、竹田さんの行商は今日も続いている。
