プロ野球に偉大な足跡を残した選手たちの功績、伝説を德光和夫が引き出す『プロ野球レジェン堂』。記憶に残る名勝負や知られざる裏話、ライバル関係など、「最強のスポーツコンテンツ」だった“あの頃のプロ野球”のレジェンドたちに迫る!

ルーキーイヤーに35勝をあげ、最多勝、最優秀防御率、新人王、沢村賞を獲得した権藤博氏。2年連続最多勝。「権藤、権藤、雨、権藤」と言われたほどの登板過多がたたって投手生活はわずか5年に終わったが、その間に82もの勝ち星を重ねた。引退後は指導者として活躍し、1998年には監督として横浜(現・DeNA)を日本一に導いた名伯楽に徳光和夫が切り込んだ。

【中編からの続き】

長嶋茂雄氏の“悪球打ち”練習

徳光:
権藤さんの投手生活の中で、“ON”はやっぱり非常にインパクトがあるお2人ですか。

権藤:
ええ。長嶋さんは憎めないのは言動だけで、バッターとしては途轍もない人だもんね。

徳光:
そうですか。

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権藤:
カーンとホームラン打ってさ、一塁からビューンってセカンドベース回ってサード回って、まっすぐホームに帰りゃいいのに、俺のマウンドの橫通って、「はい、ゴンちゃん、頑張れよ」って言うんですよ。

徳光:
(笑)。

権藤:
「試合中に何が『頑張れよ』だよ、あなたのところと戦ってんだよ」って思うじゃん。

徳光:
ピッチャーから見てどういうバッターだったんですか。

権藤:
面白いのはね、キャンプなんかでティーバッティングをしてるじゃないですか。すると誰かトスをあげるじゃないですか。
普通の人が打ちやすいところにあげると、「そこはいつでも打てる、違う。もっと高く投げろ」って言うんです。高く投げると「そこも打てる」って、もっと高めに投げると、「そこも打てる。もっと高くあげろ」って言って、肩よりも高くあげたのをグーンと打つ練習するんですよ。そして今度は「もっと低く、ワンバウンドくらい放ってみろ」って言って、低く投げたボールを打つ練習をするんです。“悪球打ち”の練習をする。

徳光:
へぇ。

権藤:
僕は長嶋さんにだけは、体のほうに向かっていってから曲がるカーブをパーンと投げるわけですよ。そしたら長嶋さんはポーンと尻もちついて避けるんですよ。それで「ストライク!」って言われると頭をかいてんです。
こっちが調子に乗って、「もう1回」と思ってガーッとカーブを投げるじゃないですか。体を後ろに反らすから「しめた」と思ったら、顎を出しながらコーンっとバットを出してファーストの頭の上をシューッと越えていくのを打たれました。

権藤氏と長嶋氏の通算対戦成績は105打数38安打で打率3割6分2厘、7本塁打、6三振だ。

権藤:
僕、1年目は三振を310個取ったんですよ。“天下の長嶋”から三振を取ってやろうと思って何回も狙いに行くけど当てられるわけです。1年目は三振0。ほいで、2年目に肩の調子があんまり良くなくてフラフラの球を投げたら、くるっと回って三振するんですよ。「なんだ、こんなもんか」と思ってね。

徳光:
(笑)。権藤さんも長嶋さんには結構打たれたんですね。通算で3割6分2厘。

権藤:
トータルしたら3割6分2厘ですけど、1年目はもっと、4割5分くらい打たれてますよ。

1年目の長嶋氏との対戦成績は29打数13安打、打率4割4分8厘、2本塁打、0三振だ。

徳光:
王さんはどうでしたか。

権藤:
マシンですよ。ボールは振らない。ストライクいっぱいいっぱいのところに来るとフェンス前。ちょっと甘いとそれがスタンドに入るっていう。

徳光:
権藤さんの1年目は王さんがまだ2本足で尻もちをつかせたとおっしゃいましたが、62年からは“1本足打法”。やっぱり1本足になってからすごかったですか。

権藤:
1本足になってから、今までくるくる回ってたのがスッと止まって。それで、ボールがちょっと甘くなったらカーンッて打たれて、「大丈夫かな、大丈夫だろう」と思ってると、ボールが甘くなった分、スタンドまでポーンと入っていくんですよ。

思わず見とれる“プロの技”

徳光:
オープン戦なんかでパ・リーグと対戦して、すごいバッターだなっていう人はいましたかね。

権藤:
西鉄(現・西武)の中西(太)さんとかですかね。フリーバッティングを打つだけで、オーッてなって見てましたもん。ガチャッと当たって「痛ぇ、痛ぇ、痛ぇ」って手をブラブラさせてるのに、スタンド中段くらいまで飛んでいきますし、ガーンッて当たったら場外に出ていくし…。オープン戦だから、西鉄のバッティング練習を見るのは、みんな楽しみだったですね。

徳光:
なるほど。

権藤:
プロの技で見たいと思ったのは、セントラルでは阪神の守備練習。じーっと見てましたよ。サード・三宅(秀史)、ショート・吉田(義男)、セカンド・鎌田(実)、3人それぞれ違うんです。三宅さんはパンッパンッと確実に捕って、長嶋さんのようなパフォーマンスも全くない。鎌田は、来た球をスーッと捕って流れるようにピュッと投げる。

徳光:
うまかったですよね。

権藤:
吉田さんなんて、もうサーカスですよ。球が来たら、いつグローブで捕っていつ右手に握り変えてるかも分からない。パンッとボールを捕ればもう右手にある。右手にボールを添えてるかと思ったら、もう投げてるんですよ。
普通はみんなショートバウンドかタイレクトで捕るじゃないですか。ハーフバウンドっていうのは一番難しいんですよ。吉田さんは、「いや、ハーフバウンドが一番やりやすい。スッと上がってきたところをそのまま引いて投げられる」って。あれだけはもう見るだけで、「すげぇー!」。

「投げてつぶれれば本望」

プロに入団してすぐ2年連続最多勝の活躍をした権藤氏だったが、登板過多による右肩痛で3年目からは成績が急落する。1963年は10勝、64年は6勝に終わり65年からは野手に転向。68年に投手に復帰したが1勝に終わり、この年限りで現役生活に別れを告げた。投手としての実働はわずか5年であった。

徳光:
投手生活が5年であるにも関わらず、これだけの成績を残されたのは、大変な金字塔だと僕は思います。でも、振り返ればもっと投げたかったんじゃないですかね。

権藤:
いや、思わなかったですね。これくらいでつぶれるとは思ってなかったですけど、「一発やってやるぞ」と思ってこの世界に入ってきたからには、「投げてつぶれれば本望だ」と思ってましたからね。

徳光:
ほう。

権藤:
投げたから潰れたんじゃなくて、シーズンオフに「肩を休ませろ」ってなったのが間違いだったですね。やっぱり動かし続けないと肩っていうのは固まってしまいます。オフにもランニングとかずっとやってましたけど、肩だけは動かさないようにしてた。今にして思えばそれが間違いだったですね。

徳光:
そういうことをしてらしたんですね。

権藤:
動かしとかなきゃいけなかったのを動かさなくなって、固まっちゃったんです。
僕は40年、投手コーチとかをやってるじゃないですか。それでね、ピッチャーが完投した翌日に、「今日、投げられるか」って聞くんですよ。みんな「いや、投げろって言われれば投げられんことはないですけど張ってます」って。中2日で「今日は?」って聞いたら、「もう完璧です」って。
ということは、ピッチャーは中2日でだいたい肩の張りはとれる。

徳光:
そうですか。

権藤:
ということは、中3日で十分なわけですよ。今は、中6日が普通ですけど、なんで中6日にするのか分からないですよね。

徳光:
球数はどうですか。

権藤:
その代わり球数だけは100くらいで止めといたほうが、長い目で見たときの故障はおきにくいと思う。だから(理想は)100球で中4日。それ以上休んでも無駄ですもん。

徳光:
ということは、投手はもっと勝ち星を稼げるってことですね。

権藤:
そういうことです。中6日で投げてたんじゃ、20数試合しか登板がないじゃないですか。20勝投手なんか出ないですよ。

コーチとして名投手を輩出

1968年に現役を引退した権藤氏は、73年に中日二軍投手コーチとして再びユニホームを着ると81年から83年まで一軍投手コーチを務め、以後、近鉄一軍投手コーチ(88・89年)、ダイエー(現・ソフトバンク)一軍投手コーチ(91~93年)、横浜(現・DeNA)一軍バッテリーチーフコーチ(97年)を歴任する。

権藤:
コーチになって、人の痛みが分かるコーチであろうと思ったんですよ。

徳光:
なるほど。

権藤:
自分が痛い思いをして、ピッチャーの痛みは分かると思ってますから、「バカヤロー、痛い? 命まで取られやせん」みたいなことは言わないですよ。
痛くて球が行かないのはしょうがないから、そのときは「休みなさい」って。それと「ちょっと違う球で勝負しなさい」とか、そういうことは言いました。行かない球をよくしようじゃなくて、その球を生かすためにほかの球をどう使うかっていうのを考えて、ピッチャーと一緒に戦ってきました。

徳光:
じゃあ、ピッチャー個人個人によって指導法がかなり違うんですね。

権藤:
違います。全然違います。

権藤氏は中日コーチ時代に郭源治氏・都裕次郎氏らを育成。近鉄コーチ時代には山崎慎太郎氏、加藤哲郎氏、吉井理人氏らを主力投手に育て上げた。

権藤:
吉井と山崎慎太郎がいい球を投げてたんですけど、僕が近鉄に行ったときに防御率は6球団最低で、「なんでこんないいピッチャーを」って言って、知らん顔して吉井を抑えに使ったんです。

ダイエーコーチ時代には、村田勝喜氏、下柳剛氏らの指導にあたった。

権藤:
下柳は、これほど暴れ馬なピッチャーはいなかったです。ボールがどこに行くか分かんない。だけど球の勢いがすごくあったもんですから、フォアボールを出そうと何しようと下柳をずーっと使ったら、そのうちまとまりだして、日ハムから阪神に行って15勝ですよ。

徳光:
阪神で大開花ですよね。グラブを叩きつけるのが有名でしたけど(笑)。

横浜監督として38年ぶり日本一

1998年、権藤氏は横浜ベイスターズの監督に就任すると、前身の大洋ホエールズ時代以来38年ぶりとなるセ・リーグ優勝・日本一に導いた。

徳光:
このときの“権藤ベイスターズ”は、各選手の自主性に任せてミーティングをしないっていうスタイルを取られましたよね。

権藤:
ミーティングなんて、あんなくだらないものは誰も聞いてないんですよ。自分がそうだったじゃないですか。ミーティングで、「あそこに投げろ、ここに投げろ」って言ったって、俺は、「俺の球はそこじゃないもん」と思ってた。ただ聞いてるだけ。“大魔神”(佐々木主浩氏)なんかは一応、中に入ってますけど、何にも聞いてないですよ。

徳光:
(笑)。

権藤:
そりゃ、あいつは9回に出て行って、真っすぐとフォークを投げるだけですから、「インコースに投げて、ストライクゾーンを広く使って」とか言われたって関係ないんですよね。聞いてないミーティングを誰がやるかと思うんです。だからやらないんですよ。

徳光:
あと、コーチを非常に大切にしましたよね。尊重したといいましょうか。あのときヘッドコーチは山下大輔さんで打撃コーチは高木由一さんでしたけど、このお2人にかなり任せてたんですか。

権藤:
任せますね。私はピッチャー交代以外は何にもしませんから。セカンドにローズっていたじゃないですか。彼が「このチームは誰が監督やっても優勝できる」って言ったんですよ。「ただし、監督が何にもしなかったら」って。これは私に対する最高の誉め言葉なんですよ。

徳光:
なるほど。

権藤:
だから「選手に任せて何にもしなかったら、このチームは勝つんだ」って思ってましたね。

(BSフジ「プロ野球レジェン堂」 25/5/6より)

「プロ野球レジェン堂」
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