プロ野球に偉大な足跡を残した選手たちの功績、伝説を德光和夫が引き出す『プロ野球レジェン堂』。記憶に残る名勝負や知られざる裏話、ライバル関係など、「最強のスポーツコンテンツ」だった“あの頃のプロ野球”のレジェンドたちに迫る!
ルーキーイヤーに35勝をあげ、最多勝、最優秀防御率、新人王、沢村賞を獲得した権藤博氏。2年連続最多勝。「権藤、権藤、雨、権藤」と言われたほどの登板過多がたたって投手生活はわずか5年に終わったが、その間に82もの勝ち星を重ねた。引退後は指導者として活躍し、1998年には監督として横浜(現・DeNA)を日本一に導いた名伯楽に徳光和夫が切り込んだ。
手作りボールが野球の原点
現在86歳の権藤氏が生まれたのは1938年。終戦時には6歳だった。
徳光:
お生まれは佐賀県。
権藤:
ええ。唐津で生まれたんです。親父が鉄道員だったもんですから引っ越しが多くて、唐津から八代に行って三田川に行って鳥栖に来て、そこからずっと鳥栖でした。
徳光:
野球少年だったんですか。
権藤:
まあ、そうですね。田んぼの中で、縫ったボールを棒切れのバットでカーンって打ってました。道具がなかったですからね。
徳光:
手作りのボールっていうのは、どういうふうに作ってたんですか。

権藤:
石に毛糸をぐるぐる巻いて、その上から、オーバーの残ったような生地を適当に切ったのを縫って…。その自分で作ったボールを棒切れで打つ。そうするとカーンっていう音がするじゃないですか。田んぼの空き地でそんなことをして遊んでたんですよね。
徳光:
そのカーンっていう音が野球への誘いになったわけですね。
中学で野球部に入るわけですか。
権藤:
そうです。
徳光:
最初からピッチャーですか。
権藤:
いや、内野手をやってました。
徳光:
内野だったんですか。
もう背は高かったんでしょう。
(※編集部注:権藤氏の身長は177cm)
権藤:
いや、背は小さかったんです。中学のときも小さかったですし、高校に入ったときでも1m60cmくらいしかなかったんですよ。
徳光:
意外ですね。では、高校時代に著しく伸びたんですかね。
権藤:
高校1年から2年の間に10cm伸びて、2年から3年のときに5cm伸びて…。
徳光:
高校は佐賀県の鳥栖高校。

権藤:
はい。高校に入ったときには内野手をやってたんですけど、上級生が卒業したら、「お前が一番背が高いし球が速いから、明日からピッチャーやれ」って言われたんですよ。
でも、やりたくなかった。嫌だったんです。たまにバッティングピッチャーで放ってストライクが入んないと、上級生に嫌な顔をされるじゃないですか。それでピッチャーだけは嫌だなと思ってたんですけど、「ピッチャーやれ」って言われて。
徳光:
それは何年生のときですか。
権藤:
高校1年か2年で。
徳光:
じゃあ2年生が初めてのピッチャー経験。
権藤:
そうです。
徳光:
甲子園を狙ったわけでしょ。
権藤:
一応、「狙った」とは言ってますけど、あの頃は甲子園に出られるのは佐賀、長崎、熊本の3県で1校だったんですよ。熊本とか長崎はすごく強いですからね。甲子園は夢のまた夢で、甲子園なんてとても出られるとは思ってませんでした。
権藤氏が高校3年生だった1956年夏、鳥栖高校は佐賀県大会準決勝で佐賀商に敗れ、甲子園出場という夢は、夢のままで終わった。
“魔術師”三原脩監督の前でピッチング

権藤:
その頃、1人で結構いい球を投げてましたから、それを西鉄(現・西武)が見て、「夏休みのときにちょっと来なさい」って、西鉄の合宿に呼ばれたんです。
徳光:
それは「鳥栖高校に権藤あり」っていうんで見に来たんですかね。
権藤:
いやいや、偶然見つけたんじゃないですか。
それで、西鉄の三原(脩)監督と川崎(徳次)ピッチングコーチの前でピッチングしたんです。そしたら、三原さんはなかなかいいと思ったんじゃないですか。「後で連絡するから」って言われたんです。それで、9月初めに二軍の練習場に1週間くらい行ったんですよ。
徳光:
高校時代に。
権藤:
はい。学校から許可をもらって…。そしたら、今度はブリヂストンタイヤ(現・ブリヂストン)から学校に「誰か1人、テストに」っていう通知が来たんです。
徳光:
今度は社会人のチーム。
権藤:
そういう通知が学校にきたのは初めてだったから「誰か受けにいかなきゃ」ってなった。でも身長1m75cm以上っていったら私しかいなかったもんですから、私が行ったんですよ。誰もバットにかすらない、ボールが前に飛ばないんですよ。今度はブリヂストンが「採用する」って話になったんです。
徳光:
そのとき、西鉄の三原さんたちはどうしたんですか。

権藤:
当時、私は身長は1m75~76cmくらいあったんですけど、体重が62~63kgしかなかったんですね。「やっぱりこの体じゃブリヂストンでじっくりやったほうがいい」と思って、西鉄はお断りしたんです。「ぜひ、どうぞ」と言われるほどの選手じゃないもんですから、「頑張んなさい」って言われただけでした。
徳光:
当時、三原さんといえばもう大監督じゃないですか。自分を見てくれてるってことは、高校生にとっては大きかったでしょう。

権藤:
でも、もう少し早く見てくれたら、ひょっとしたら甲子園に行けたかも分かんない (笑)。
西鉄の練習から学校に帰ってきて投げると、今までバットに当ててたやつが、かすらなくなっちゃったんです。
徳光:
へえ。
権藤:
「俺は西鉄の三原さん、川崎さんの前で球を投げて、『よし、うちに来い』って言われたんだ」って思ったら、もうかすらないわけですよ。だから、ブリヂストンのテストを受けたときも、誰もかすらなかったんです。
徳光:
なるほど。そういう野球人生の出発だったわけですね。
“鉄腕”稲尾和久氏をモノマネ

権藤氏は1957年にブリヂストンタイヤに入社。1960年の都市対抗野球大会では北九州南部予選で強豪・日鉄二瀬に敗退したが、権藤氏はその日鉄二瀬の補強選手として全国大会に出場、2試合に登板し7回を無失点に抑えた。
徳光:
当時、ブリヂストンは強かったんですか。
権藤:
私が何とか抑えるだけで、都市対抗予選も、延長で私が1点取られて1対0で負けたんです。それで私は日鉄二瀬の補強選手で都市対抗に出たんです。
徳光:
そうすると、当時、全国の強豪とも対戦したんですか。
権藤:
日本石油(現・ENEOS)とか日本生命とか丸善石油とか、来たら全部シャットアウトしました。
徳光:
社会人野球時代に対戦した中で、すごい選手もいらっしゃったわけでしょ。

権藤:
やっぱりいましたよ。日本ビール(現・サッポロビール)から国鉄(現・ヤクルト)に行った北川(芳男)さんとか、日本通運からジャイアンツに入った堀本(律雄)さんとか。
徳光:
なるほど。

権藤:
堀本さんがブリヂストン球場にきたとき、三塁側ブルペンで投げ始めたんですよ。「おい、すごい球を投げてるな」って外野のほうにある合宿所から見てたら、キャッチャーのやつが見に行って、「すごい球を投げるけど、ゴンのほうが速いぜ」って。
権藤:
そんなもんかと思ってね。
権藤氏が当時、憧れていたのは西鉄ライオンズで活躍し、「神様、仏様、稲尾様」と称えられた稲尾和久氏だという。

権藤:
僕はノンプロに入って稲尾さんのピッチングを見て、稲尾さんのモノマネを始めたんですよ。稲尾さんのフォーム、右足1本でスッと立つのをマネしながら、レフトポールからライトポールまで走っていって、帰りは稲尾さんのフィニッシュをマネ。もう毎日ずっと、稲尾さんのモノマネをやってた。
徳光:
それは結果的に良かったんですか。
権藤:
最初の何球かはいいけど、足がついてこないとバテていい球が放れなかったんですよね。でも毎日やったおかげで、いくらでも球を投げられるようになったんです。稲尾さんのモノマネをして球が速くなりだして、ノンプロの試合ではみんなシャットアウトしたんですよね。
それでプロの球団から話が来たんです。大洋とかからも来ましたし、西鉄もまた来た。最後は巨人と中日の争いになって…。
徳光:
ええ。

権藤:
ジャイアンツには、「うちは他球団より多く出すから、他球団が出した金額を言ってくれ。契約金も給料も払う」って言われたんですけど、「はい、分かりました」ってジャイアンツのほうに行くわけにはいかなかったわけですよ。スポーツマン同士ですから。
徳光:
中日が先だったわけですね。
権藤:
はい。
徳光:
中日への入団はご自分で決められた。
権藤:
そうですね。
徳光:
先に声がかかってれば、巨人だった可能性もあったわけですか。
権藤:
先にっていうか、中日にポンと条件を言われたんで、「はい」で終わったんですよ。
“フォークの神様”から受け継いだ背番号「20」
権藤氏は1961年に中日に入団。背番号は“フォークボールの神様”杉下茂氏がつけていた「20」だった。
権藤:
僕が入団発表したときには、監督は杉下さんだったんです(※編集部注:杉下氏は当時、選手兼任監督だったが公式戦の出場はなかった)。僕が入ったあとで、杉下さんが大毎(現・ロッテ)でもう1回現役をやることになって監督を辞めて、濃人(渉)さんが監督になったんです。それで私に20番が来たんです。そして、。
徳光:
そうか。二軍監督だった濃人さんが一軍に昇格したんだ。
権藤:
「20番つけろ」って言われて。「え、こんな番号を」とは思いましたけど…。
徳光:
20番を付けさせるっていうことは、「お前はこのチームのエースだぞ」みたいなことを言われたんじゃないですか。

権藤:
いや、そんなことは言われないですけど、20番をもらったときには、自分でもそんなに自信があるわけじゃないじゃないですか。でも、オープン戦で投げたときに、「これで勝っていける」とは思いましたね。堀本さんが29勝する、北川さんが18勝するっていうのを見てたんで、「俺もそれくらいはいける」と思ってたもんですから。
徳光:
すごいな。

権藤:
「体が細いから夏場が問題だな」って言われたんですけど、夏場には一番自信があった。
徳光:
夏場はどうして自信あったんですか。
権藤:
都市対抗の予選なんていうのは4日間連続、炎天下で1人で投げるわけじゃないですか。
徳光:
プロはナイターだから。

権藤:
夜に電気つけてやるようなところなら、毎日でも投げられると思ってましたから(笑)。
徳光:
なるほど、そういう思いがあったんですね。
“2本足時代”王貞治氏「かわいいもんだった」
徳光:
1年目から濃人監督は相当期待してたんじゃないですかね。初登板は覚えてますか。
権藤:
覚えてます。巨人戦です。僕は開幕第2戦で先発したんです。

1961年4月9日の巨人戦で初登板をはたした権藤氏は9回を投げ切り、失点1、被安打8、奪三振6の好投を見せ4対1の勝利に貢献した。
徳光:
長嶋さん、王さんにも投げたわけですよね。
権藤:
ワンちゃん(王氏)はまだ2本足で、ちょっとかわいいところがあったんですよ。カーブを投げると尻もちついて三振したりしてたんです。その代わり“1本足”になってからは私もガンガン打たれてるんです。
徳光:
1本足打法の前の王さんも知ってるわけですね。
権藤:
あいさつもちゃんとするし、「かわいいな、ワンちゃんは」とか言いながらね。
徳光:
長嶋さんはいかがでしたか。

権藤:
マウンドに上がって「サード・長嶋」っていうアナウンスが流れたときに、「ああ、これが天下の長嶋か、俺はとんでもないところに立っているんだ」って思いましたね。もう、打つか打たんかじゃない。ポーンと投げたらガーンと打たれた。「あっ、やられた」と思ったら、フェンス直撃2ベースだったんです。マウンド上で見とれてるみたいな感じはありましたね。
徳光:
そうですか。初登板初勝利、これはうれしかったんじゃないですか。
権藤:
「勝ってうれしい」というよりも、「ああ、やれやれだな。20勝するためにはこの苦しみを20回味わわなきゃいかんのか」って思ったんですよね。「20勝投手っていうのはえらいもんだな」と、ひとつ勝ったときに思いました。
【中編に続く】
(BSフジ「プロ野球レジェン堂」 25/5/6より)
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