日本が太平洋戦争に敗れて80年の節目を迎えた2025年。
山陰に残る戦争の体験や記憶を映像で残す「戦後80年企画」。第1回は、国を挙げた「燃料確保プロジェクト」を取り上げる。
物資不足の太平洋戦争末期…「マツ」から代替燃料を製造
航空機用のガソリンが不足した太平洋戦争末期…代替燃料として着目されたのが、植物のマツから採れる油だ。その優れた産地として名を馳せたのが島根県邑南町で、その”遺物”が、今は形を変えて当時の記憶を留めている。

マツと戦闘機が描かれた、戦時中のポスター。
記されているスローガンは「全村をあげて松根赤だすき」だ。
このポスターが作られたのは、太平洋戦争の末期。燃料不足に悩む旧日本軍は、マツから採れる油から戦闘機用のガソリンを製造することを計画していた。
終戦の11日前、”昭和20年8月4日の新聞”の紙面にも「とろう松脂決戦の燃料へ 簡単にできる良質油 本土到るところに宝庫あり」、「国民の総力を挙げてマツから油を採取せよ」と戦意高揚を図る見出し。これが逆に、切羽詰まった日本政府による国家プロジェクトだったことを表している。

マツから採取される油は2種類ある。一つが「松脂(まつやに)」。
出雲大社の神門通りの松並木には、今もむきだしになった幹に刻まれた何本もの筋が残っている。松脂を採取した傷あとだ。

山陰でも至る場所でこうした「戦争の傷あと」を確認することができる。
もう一つが「松根油(しょうこんゆ)」。
枯れたマツの切り株を、蒸し焼きにすることで得ることができる。

精力的に製造「松根油」 歴史を伝える“遺物”が意外な形で寺に…
この「松根油」が精力的に製造されていたのが、現在の島根県邑南町だ。その事実を伝える製造道具が、町内の「西隆寺」に意外な姿となって残されていた。

邑南郷土史研究会・中山光夫さん:
松根油をこしらえた釜があります。現物がこちら、お寺の鐘楼代わりにしている。

案内してくれたのは、町の歴史を研究する中山光夫さんだ。
西隆寺の釣り鐘には、表面に突起も模様もない。これは戦時中、松根油を抽出するために使われた鉄釜だったためだ。

中山さんは「戦前には鐘楼があったと思うが、鉄の供出があったのでなくなり、河原に捨てられ使われなくなっていたのを戦後に持ち帰って吊るした」と、西隆寺の釣り鐘のいきさつを話す。
終戦で役目を終えた鉄釜は、戦時中の金属供出で失われた寺の釣り鐘の代わりとして、戦後すぐに住職らによって吊るされたと伝わえられていた。

邑南町内には、こうした鉄釜を使った松根油の工場が3か所あったとされ、多くの働き手を戦地に送り出した村では、女性や高齢者、子どもたちが総動員で松の根の掘り起こしなどを行っていたという。
邑南郷土史研究会・中山光夫さん:
抽出された松根油は、まとめられて松江まで汽車で運ばれたようです。検査をしたら、邑南町のものは非常に評価が高かったということでどんどん増産した。
質の良さを裏付ける証拠が、町内の民家に残されていた。

山田光男さん:
「燃料を緊急に増産しろ」ということがあり、親父たちがそういう命を受けてやったんだろう。
こう語るのは、町内にすむ山田光男さん。家には、農商大臣と海軍大臣から贈られた賞状があった。その日付は、皮肉にも「終戦の日」”昭和20年8月15日”だった。

光男さんの父の福市さんは、松根油工場の責任者に抜擢されていたという。
現在82歳の光男さんは「油が窯の後ろから、今で言うガソリンみたいな感じの油と、もう一つ重油のような2種類の油が取れた」と語り、今も当時の微かな記憶が残っていた。

さらに父の福市さんと、松根油を換金するため一緒にでかけたことを、昨日のことのように覚えているという。
かつての「鉄釜」と「幼子」の記憶…。中国山地の山懐に抱かれた小さな村にも、戦争がすぐ近くにあったことを物語っている。
「松根油」20万リットル製造も…航空燃料として実用化された記録なし
資料によると、邑南町を始め全国から集められた松根油は20万リットル。しかし航空燃料としては質が悪く、実用化されたという記録はない。
実際に邑南町で松の根の掘り起こしに駆り出された人は、「心の中では、『松根を掘るようではもうだめだ』と思いながらも、口には出せなかった」と述懐している。

“戦時下の異常性”を図らずも体現した鉄釜…。今はその姿を釣り鐘に変えて、安寧の響きを山里に伝えている。
(TSKさんいん中央テレビ)