陸上女子800mの新潟県記録保持者で、選手と研修医の二刀流を続けてきた新潟アルビレックスランニングクラブの広田有紀が引退会見を開いた。“オリンピック”と“医師になる”という夢を追い続けた広田が涙ながらに引退を決断した理由など、その胸中を語った。
文武両道を掲げて医師と五輪の夢を追う
3月、新潟市中央区で引退会見を開いた新潟アルビレックスランニングクラブの広田有紀。

新潟県随一の進学校・新潟高校3年時に陸上女子800mでインターハイと国体で優勝。その後は秋田大学医学部に進学し、陸上を続けた。
2020年に医学部を卒業した広田は、すぐに研修医にならず、東京オリンピックを目指して陸上に専念。
東京オリンピックの代表選考会を兼ねた21年の日本選手権では、県記録を更新する走りで準優勝を果たしたが、惜しくも東京オリンピック代表の座を逃した。
その後は、医師になる夢を叶えるため、23年4月から新潟大学医師学総合病院などで研修医として勤務。その傍ら、アルビRCで陸上にも励んだ。

選手と医師のいわば二刀流を続けてきたことについて「大変じゃなかったと言ったら嘘になる。ただ、とても充実していた。陸上競技場ややすらぎ堤以外の病院でも、日頃の生活でも、常に応援の言葉や支えてくれる人の笑顔に触れる機会が誰よりもあったのではないかと思う。そういった地元愛を身近に感じながら競技を行えたのは、やはり両立あってのことだったなと思う」と振り返る。
陸上のトップ選手として、医師として、学生時代から文武両道を貫く姿で注目された広田。メディアに取り上げられる回数が増える中で、うれしい出会いが増え、そのすべてが思い出に残っているという。
「陸上競技場で『テレビで知りました』と言ってお守りをいただいたり、病院の中でも『先生の記事見たよ』と言ってお手紙や子どもたちから絵を描いてもらったりとか、こういう活動をしていたおかげでいただいたものがたくさんあること自体、すべてが思い出に残っている」

「まだ競技を続けたい」本音と現実
現役生活を冷静に振り返りつつも、この日の会見では“まだ競技を続けたい”という思いが涙とともにあふれた。
「やっぱり私としては競技をやり続けたい。心の中ではずっとやりたくて、やりたくてしょうがないし、体がついてくるなら、状況が許すなら、日本選手権という舞台も世界に出るという目標も、新潟から世界へというのを自分が果たしたいと思っていたし、800mの日本記録を目指してここまでやってきたので、その目標を諦めるということを認めることになるので、それが悔しくて涙が出てくる。ただ人生は短いし、その中で諦めることも必要だということがやっと分かったという状況なので受け入れざるを得ない。受け入れる中で涙が出てくるという状況」
競技を続けたい思いがありながらも続けられないと判断した主な理由は、体のコンディションにあった。
「陸上一本にしたのが2020年で、ここまでにかけて疲労骨折は3~4回しているし、アキレス腱炎にも2~3回なっていて、もう足が言うことをきいてくれないという状況の中で気持ちだけが先行した。練習してはそのケガを繰り返すというのが続いていたので、現状、もっと早くコンディションだけを見たらやめるべきだったと思う。やれるような足ではなかったが、気持ちだけでどうにか去年までやってきた状態だったので、ようやく見切りをつけたという状態」

思うように走れないコンディションだけでなく、自身を客観視したときに感じたある異変も引退のきっかけとなった。
「ちょっと落ち着けた瞬間が(24年の)10月、11月くらい。そのときにすごく頻回に夢を見るようになった。それが陸上競技の夢だった。いつもだったら自分があり得ないタイムを出す、たとえば2分を切るとか、世界大会でメダルを取ってしまうとか、可能性は低いが、『自分がそれを望んでやっているんだ』ということを認識するような夢で。けれども10月、11月は他の選手たちが良い記録を出す夢ばかりを見ていて、これは何を意味しているのだろうと、自分の中で落ち着いて考えたときに、もう自分が主人公じゃなくなっているなと。そこに落ち着いたという状況で。一方で『いや自分が主人公になるんだ』と練習を始めると傷がうずいたりとか、なんか気持ちが乗ってこない。そこの2つを合わせて『ああ、終わりなんだろうな』と秋頃に思った」
地元の力を感じた2024年の日本選手権
これまで度重なるケガを乗り越えて競技を続けてきた広田。競技人生の中でも印象に残っているというのが、24年に新潟で開催された日本選手権だ。

この時も万全な状態ではなく、引退を考えながら臨んでいたと振り返る。
「24年の日本選手権は地元開催で、その頃はメンタル的にもかなりやられていて。やっぱり自分はやってもやってもケガをするから、陸上界にはもうこれが最後なんだなと自覚した上でのレースというのが初めてだったので、そういう意味でもスタート前に崩れそうというか、立つことが怖いというのがずっとつきまとっていた」
スタート前に崩れそう…
そう表現するほどに過酷な状況で臨んだ大会で広田は予選を2分4秒43で走り、見事決勝に進出。決勝は2分6秒91で8位入賞を果たした。
「走るのが怖い中で地元の力を借りて走れることのありがたさと、色んな感情があった試合。こんなに自分ベクトルじゃない試合が初めてだったので印象的だった。やっぱり地元開催だからこそ一人で戦っていない、みんなで戦っている気持ちでやらないと出ることができなかった試合だったので、本当に今年の引退を決めるレースとして日本選手権があったということは巡り合わせだし、神様に感謝だなと思う」
次世代アスリートを勇気づけた“文武両道”の姿勢
引退会見には高校時代の恩師・和田紀明さんがサプライズで登場。

現役生活にピリオドを打った教え子に「小さい子どもからお年寄りまで、有紀の走りと活躍で夢と希望を与えてくれたと思う。特に中高生が文武両道というところをしっかりできるんだという良い目標、手本になってくれたなと思っている。後半はケガできつい、つらいときもあったと思うが、有紀が残した功績は競技実績だけじゃなくて、本当に色々な部分で新潟の子どもたち、日本の子どもたちに夢を与えたと思う。胸張って次のステージに進んでください。整形外科ということなので自分の経験も使えるだろうし、小さい子からお年寄り、またはアスリートの体と心に寄り添っていけるような素晴らしい医師になってください。お疲れ様でした」と労いと感謝の言葉を贈った。
広田が貫いた“文武両道”の姿勢は多くの次世代アスリートを勇気づけた。
陸上競技を頑張る子どもたちへのメッセージを問われると「何事もそんなに全部うまくいかないし、うまくいかないときの対処法として自分と向き合うこと、自分が本当にやりたかったことは何なのか。あとは一人で抱え込まず、みんなの力を借りる、この2点さえやっていれば必ず道が開けて、何かしらの形が残るというところをみんなには知っていてほしいかなと思う」と話した。
「今度は選手たちをサポートする側に」
今後は東京の病院で、整形外科の専門医を目指すという広田。

今後のビジョンについては「あくまで自分が選手をしていたからこそ思っていたビジョンとしては、やっぱりスポーツに医師としても関わりたい。スポーツドクターや大会遠征での救護だったりとか、そういう関わり方で今度は選手たちをサポートする側に回りたいと思っていた。ただ、ここから選手を引退してみて、改めてスポーツとの関わり方をどうしていきたいかはちょっと変わってきそうな気がするので、そこはうまく考えてやっていきたいと思う」と話した。
目指す医師像については、「表面のケガの事実だけじゃなくて、そのケガに至ったプロセスと、その選手の癖や状況を把握していくということをしていきたいと思う」と、ひとりひとりに適した接し方で選手を支えていきたいと意気込んだ。
一方、選手引退後も新潟アルビレックスランニングにアンバサダーとして籍を置き、今後は新潟の子どもたちとのふれあいなどを通して地域貢献活動にも取り組んでいきたい考えだ。
医師としての多忙な生活が予想されるが「時間がどこまで許すかわからないところではあるが、やっぱり新潟が大好きで、願望としてはまだまだ関わり続けたいなとは思っている」と地元愛を口にした。
会見で何度も「一人では戦ってこられなかった」という周囲への感謝の思いを語った広田。
陸上競技生活を全力で走り抜き、多くの人を勇気づけたランナーは、新たなステージに向けて走り出した。
(NST新潟総合テレビ)