80年前の1945年3月、アメリカ軍の進攻が迫るなか、沖縄では法的根拠のない大規模な防衛召集が行われた。

「根こそぎ動員」といわれた防衛召集の背景をひもとくと、戦況が悪化するなかで誤った判断を下し犠牲を広げていった軍と、積極的に加担した戦時行政の姿が浮かび上がる。

渡口彦信さん:
本当に惨めなものでした。友人が亡くなった思いというのは今でも胸にありますね。自分は生きてすまなかったという感じがします

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沖縄県の本部町出身の渡口彦信さんは80年前の1945年、沖縄県の嘉手納町にあった沖縄県立農林学校の3年生だった。

日本有数の特色のある実業校として高く評価されていた沖縄県立農林学校で渡口さんは、農業指導員をめざしていた。

しかし、学校生活は次第に軍事国家の影響を受け始める。

渡口彦信さん:
学園は兵舎に変わってしまいました。我々生徒は陣地構築、特に嘉手納飛行場の工事をしました。ほかの生徒も一緒だと思いますが、私は軍に入って早く上官になろうと考えていました

17歳のころには航空兵を育成する「予科練」を受験したが、身長が5センチ足りず不合格となった。その時の悔しさは今も鮮明に覚えている。

渡口彦信さん:
軽便鉄道に乗って自宅に帰って布団をかぶってしくしく泣きました。いま考えると大和魂とか軍国少年だったんですね

絶対国防圏の崩壊 大本営の誤算

その頃、海外で快進撃を続けてきた日本の戦況は一変していた。1944年7月、サイパンが陥落、フィリピン戦線で厳しい戦闘を強いられるなか、大本営が地上戦を想定したのが沖縄と台湾だった。

日本軍の補給拠点の台湾か、本土爆撃の足掛かりとなる沖縄か。大本営はアメリカ軍が先に台湾に進攻すると考えた。沖縄から1個師団を台湾防衛に充てることを決定、しかし沖縄守備軍の第32軍は強く反対した。

第32軍 八原博通 高級参謀
「沖縄本島及び宮古島を保持せんとする方針ならば、軍より一兵団を抽出するは不可なり」

しかし決定は覆らなかった。高射砲部隊の第24師団か精鋭部隊の第9師団か、第32軍は沖縄本島南部に配置していた第9師団の台湾転出に応じた。

この大本営決定には、軍内部で異論が相次いだことが後の調査で判明している。戦力を削がれれば沖縄のみならず本土攻撃の隙を与えることに他ならないからだ。しかし大本営は沖縄に部隊を補充する事はなく、第32軍は建設していた中飛行場などを放棄し第24師団を本島南部に移動。司令部を置いた首里を含む南部・島尻戦線を主戦場とする持久戦を決定した。

この決定は後に住民犠牲を拡大させる遠因となる。

ところでアメリカ軍は当初、台湾上陸を検討していた。台湾進攻後に沖縄を目指す作戦計画が変更となったのは、フィリピン戦線で日本軍の抵抗が少なかったことからすぐに沖縄を目指すこととなった。沖縄から転出した第9師団が交戦することはなかった。

使える住民は全て兵士に 根こそぎ動員と戦時行政

大本営が戦局を読み違えたことで兵力を削がれた第32軍。増援の望みもないと判断し現有兵力でアメリカ軍を迎え撃つことを決めた。そして1945年3月、大規模な防衛召集が行われた。

渡口彦信さん:
卒業式の予定が3月23日でしたよ。卒業を待たずに私は3月1日に球部隊に入隊を命じられました。名護で徴兵検査して、(友人たちと)別れるときに『靖国の桜の下で会おうね』と、一緒に死のうと。国のためにはその覚悟は持っていました。天皇、国のために、一つはそういう教育をされていたのです

知事の島田叡(しまだ あきら)と軍は覚書を交わした。旧制中学や師範学校の生徒たちで鉄血勤皇隊を編成するものだ。

当時、防衛召集の対象は17歳以上で14歳以上は志願し兵籍に入ったた者に限られていた。しかし軍と県が覚書を交わしたことでによって、各学校で鉄血勤皇隊が編成され生徒の意思にかかわらず一斉召集されていた。

また、市町村では義勇隊が結成された。義勇隊も本人の志願という体裁をとる事で実質的には強制的な徴兵だった。法的な根拠もないまま、軍と行政が一体となって根こそぎ動員を進め沖縄県民に犠牲を強いたのである。

負傷した仲間に手渡した手榴弾

圧倒的な戦力のアメリカ軍を前に、渡口彦信さん(当時18歳)の部隊は沖縄県糸満市摩文仁まで追い詰められた。150人以上いた隊員は30人程度になっていた。

渡口さんは負傷した仲間に自決用の手りゅう弾を手渡したことがある。

渡口彦信さん:
それまで毎日握り飯を日が暮れると渡していましたが、上官に手りゅう弾を配りなさいと指示されました。手榴弾を渡して部隊に戻るときの気持ちは何とも言えませんでした。何度も後ろを振り返ったりしました

部隊解散後、渡口さんは本土出身の2人の兵士と岩場に身を潜めていた。既に日本軍の組織的戦闘が終結した1945年6月下旬、アメリカ軍の投降の呼びかけが聞こえた。

渡口彦信さん:
出てきてください、私は沖縄の人間です。放送は最後の呼びかけだと言っていました。仲間の2人が『あなたは沖縄の出身だから出て行ったら』というので投降することにしました

渡口さんはアメリカ軍に捕まり、壕に残った仲間は火炎放射器で焼かれた。

渡口さんはその後ハワイの収容所に送られ、1年半後にようやく沖縄に戻った。

「靖国で会おう」と誓った幼なじみ15人のうち、生き延びたのは3人だけだった。

戦後80年 歴史の過ち繰り返してはならぬ

戦後、渡口さんは慰霊の旅をしながら戦争の残酷さ、平和の尊さを語り続けてきた。

渡口彦信さん:
戦争というのは味わった人でなければ分からないと思います。戦後80年経つと記憶が薄らいで、戦争という怖さがだんだん薄らいできています。戦争になったらどうなるということを考える必要があると思いますよ

戦争の記憶が遠ざかるなか、二度と歴史の過ちを繰り返してはならないと渡口さんは力を込める。

(沖縄テレビ)

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