死者14人負傷者約6300人に上った地下鉄サリン事件から今日、3月20日で30年となる。

事件当時、警備警察トップの警察庁警備局長として捜査や情報収集の陣頭指揮にあたっていた杉田和博元内閣官房副長官(83)が、FNNの単独取材に初めて答え、オウム真理教による一連の事件などに対する警察当局の対応と問題を明らかにした。

杉田氏は1966年に警察庁に入庁し警備部門を歴任して、地下鉄サリン事件の1年前の1994年から警察庁警備局長として、一連のオウム真理教による事件などで情報収集や捜査の指揮にあたった。また2012年から2021年まで安倍・菅両政権で内閣官房副長官を務め、歴代最長の在任となった。

ーー地下鉄サリン事件から30年がたった
「もう30年なんですね。事件前年の94年10月に神奈川県警本部長から警備局長に着任しましたが、教団は1980年代から空中浮揚などができると称して、ヨガサークルなどを通じて信者の勧誘を活発に行い、お布施という形での集金も行っていました。一方で教団内では拉致やリンチ事件、異臭騒ぎによる地元住民とのトラブルも起きていました」
94年6月におきた松本サリン事件の捜査で、教団がサリンの原材料を大量に購入していたことが分かり、山梨県上九一色村(当時)の施設周辺ではサリンの残留物が発見された。
またこの年には宮崎県で信者の父親の資産を狙った拉致事件があり、山梨県でも元信者の女性の監禁事件がおきるなど教団の犯罪も明らかになり、警察庁では関係する各県警との会議が頻繁に行われていた。
一斉捜索に管轄権の壁
「私もこうした会議に出席して県警からの報告を聞いて、どのように教団にアプローチしていくのか、警察庁の国松孝次長官や垣見隆刑事局長らと協議していました」
「そうした中、1月17日に阪神・淡路大震災が発生し、警察は救出活動などにあたりました。立件可能な教団による事件の内容や県警の規模からも一斉捜索は見送り、各県警で捜査を継続していくことになりました」
また当時は都道府県警の管轄権から、都内で事件がなければ規模の大きい警視庁は捜査できなかった。事件後、広域組織犯罪での管轄権が見直された。
「県単位で事件をやっていては身構えられて、証拠隠滅もされてしまいます」

こうした中、2月末に都内で妹を脱会させようとしていた仮谷清志さん監禁事件(のちに監禁致死と判明)が発生した。
「警視庁の捜査で教団の犯行が明白になり、強制捜査に着手することになりました。やるからには一斉捜索のほうが相手も守りにくいという判断になりましたが、教団がサリンや銃で反撃してくる可能性もありました」
「自衛隊の協力を得て防護服などの装備を揃えて訓練もする必要があり、結果的に3月22日の強制捜査になりました」
3月15日には霞ヶ関駅で不審なアタッシュケースが発見され、のちに教団が警視庁の警察官らを狙ってボツリヌス菌を噴霧しようとしていたことが分かった。
「この事件が教団による犯行という見方もありましたが、極左グループによる犯行という見方もあり、被害もなかったことから判然としませんでした。これが教団の犯行と分かっていれば、その後の展開は変わっていたかもしれません」
「やられたと思った」 情報はなく、サリン事件は想定されず
そして3月20日、地下鉄サリン事件が発生する。

「びっくりしました。やられたと思いました」
ーー警備局に情報はなかったのか
「その時点では情報はなかったし、強制捜査に先駆けてそういう事案をおこすという想定もありませんでした。上九一色村の施設の警戒など身構えてはいましたが、ああいうやり方で機先を制してくることは予測していませんでした」
杉田氏は警備局長の前は、坂本弁護士一家殺害事件があった神奈川県警の本部長だった。

「1989年に一家が行方不明になってから、警備局でもオウム真理教という得体の知れない集団には関心を持っていました。1993年に神奈川県警の本部長になった時も、ひそかに上九一色村を視察していました」
1990年には坂本弁護士事件の実行犯だった岡崎一明元死刑囚が麻原元死刑囚を脅して金を得るために、龍彦ちゃんの遺体が長野県に埋められているという手紙を、地図をつけて神奈川県警に送りつけ、捜索が行われたが発見できなかった。
その後、一家3人は行方不明となった日に自宅アパートで殺害されていたことが分かり、事件から6年後の1995年9月、新潟県、富山県、長野県で別々に遺棄されているのが発見された。

強制捜査が入ってからは、5月16日に上九一色村の教団施設で、教祖の麻原彰晃こと松本智津夫元死刑囚が地下鉄サリン事件の殺人容疑などで逮捕されるなど教団幹部も相次いで逮捕され、一連の凶悪な重要事件の解明が進められた。
そうした強制捜査のさなか、警察を揺るがす衝撃的な事件が発生した。
警察庁長官銃撃事件発生 「驚愕した。長官に申し訳ない」
強制捜査から約1週間がたった3月30日、警察トップの国松警察庁長官が自宅マンションを出たところを銃撃され、3発の銃弾が腹部などに命中して一時、意識不明の重体となった。

ーー事件を聞いて
「驚愕ですよ。警備はガチガチに行っていると思っていましたから。長官には申し訳ないと思いました。本来ならもっと警戒の輪を狭めるべきでした」
また杉田氏は自身も含めて、警視総監ら責任者の処分が行われると思ったが、それもなかった。
「長官にしてみれば不覚にも撃たれたという気持ちがあったのかもしれません。私にしてみればそういう時こそ警察全体を引き締める意味でも、それなりの処分は早くすべきだと思いました」
「事件捜査は刑事部主導」を提案したが
長官銃撃事件の捜査は警視庁公安部が行うことになったが、杉田警備局長は「捜査報告が刑事と公安に分かれると混乱するので、捜査は刑事部が主導して公安部は刑事部の下にサポートとして入る形で構わない」と垣見刑事局長に提案した。
「トップ代行となった関口祐弘警察庁次長、垣見局長と3人の場でした。捜査にあたる警視庁では、刑事部と公安部の関係は伝統的に決してよくありません。お互いの壁がある中で、教団の関与の可能性がある事件を別々にやっても、逮捕した教団幹部の取り調べは刑事部が進めている中で、情報が途絶えてうまくいくはずがないと思いました。『私はあなた(垣見局長)のサブでいいから一緒にやりましょう』と強く言いました」
しかし垣見局長は「こちらは手一杯なので公安部でやってほしい」と主張し、公安部の捜査が決まった。
警視庁警察官の自供に箝口令
また翌年には警視庁の現職警察官が「自分が長官を撃った」と供述していることが分かった。この事実はトップの警視総監から箝口令が敷かれ、副総監、公安部長、刑事部長、秘匿でこの警察官の取り調べにあたった公安部の限られた捜査員以外は知らず、警察庁にも報告されなかった。
また警察官は「銃は神田川に捨てた」と供述したが、発覚の可能性があるので捜索は行われず、調べにあたっている捜査員には「供述の裏づけは取らない」ことが徹底された。

この事実は約5カ月後にマスコミに送られた投書による告発で明らかになった。杉田氏や国松長官のもとにもその後、同様の告発文が送られていた。
「全国レベルで捜査員が事件解明のために必死で動いていましたが、中枢だった警察庁警備局が供述を知らず、現場を動かしていたことになります。驚愕しました」
「報道されたのがちょうど皇室の警備で宮崎県に出張していた帰りで、飛行機で戻ってすぐに空港近くのホテルで国松長官と会いましたが、長官にも事前の報告はありませんでした」
「事実上軟禁状態だったわけで、長官とは警視庁から早急に事実確認をして、今後の捜査はオープンにやらなければならないと話しました」
その後、この警察官は教団の信者で、警察の情報を教団に漏らしていたことが分かり、懲戒免職処分となった。また警視庁の公安部長は更迭され、警視総監は引責辞任したが、警察官の事件への関与は立件されなかった。その後、杉田氏のもとを訪れた公安部長は、「喉元まで言葉が出かかっていました」と吐露したという。

また2003年には別の強盗事件で服役していた男の関与が浮上したが、動機や犯行に使われた拳銃が見つからず、結局、長官銃撃事件は2010年に時効となった。
警察にとってはトップが狙われた事件を解明できず、身内をかばったともとれる捜査に禍根が残った。
時効になっても真相解明が必要
「役人をやめるときにこの事件だけは心残りでした。これが明らかにならない以上は、オウム事件は何だったのかということがずっと残ることになります」
「時効になっても引き続き真相解明のための捜査をしていくべきだと思うし、私ならそうします」

杉田氏は事件への無念の思いを、涙をためて語った。
あらためて一連のオウム真理教事件について聞いた。
ーー宗教団体だったことでの躊躇は?
「戦前の宗教弾圧のこともあり、おかしいと思いながらも捜査に慎重になった側面はあったと思います。その間に信者に薬物を使うなどのマインドコントロールや、拉致や監禁もあった。サティアンとよばれる施設を次々と作り、サリンの生成や銃の密造もおこなっていました」
「異形の集団であると感じながら立件までに時間がかかり、坂本弁護士一家殺害、松本サリン、地下鉄サリンといった凶悪事件を起こしました。警察力をもっと幅広く、早い段階で投入するべきでした。警察として情けなかったし、申し訳ないと思っています」
2022年には警察庁にサイバー警察局やサイバー特捜部が設置され、サイバー犯罪では海外の捜査機関と共同捜査もしている。
またトクリュウによる特殊詐欺などでは東南アジアの捜査当局などと連携して、県境だけでなく国境をこえた犯罪にも対応している。
「これから警察として何が大事かと言えば、社会全体に不安感や脅威を与えている芽がないのかを見ていきながら、事案に応じて専門分野に集約して、情報分析や捜査に生かしていくことです」
官房副長官として政権支える 安倍元首相銃撃に衝撃
杉田氏は2012年から9年近く、官房副長官として内閣を支えた。
安倍元首相は2022年、凶弾に倒れた。

「衝撃でしたが、もうそのことは言いたくありません。副長官として懸案は数多くありましたが、振り返る暇もなく1日1日、懸命にやってきました。メディアとの付き合いも政策の背景説明などを通じて、記者とのやりとりを大切にしてきました」
趣味のテニスは忙しくてできなかったが、一線から退いた今は企業へのアドバイスなどをしながら自宅周辺の散策を楽しんでいるという。
(執筆:フジテレビ特別解説委員 青木良樹)
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