70年前に折られ、2024年に福岡で見つかった「折り鶴」。12歳で亡くなった少女の願いが込められた折り鶴は、海を超えてアメリカの元大統領のもとに届けられた。

遺品のなかに70年前の折り鶴が…

アメリカのオバマ元大統領と一緒に写真に収まる佐々木祐滋さん。2025年2月末、1羽の折り鶴を手にオバマ元大統領のもとを訪れた。

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折り鶴を手渡された元大統領は「折り鶴を通じて平和のために一緒にできることがあれば言ってください」と声をかけたという。

オバマ元大統領に手渡された70年前に折られた折り鶴
オバマ元大統領に手渡された70年前に折られた折り鶴

福岡・那珂川市に住む佐々木祐滋さんが、元大統領に手渡した折り鶴は、祐滋さんの父親の雅弘さん(83歳)が3カ月前、自宅の整理をしていたときに見つけた1羽だ。雅弘さんの父親(祐滋さんの祖父)の遺品のなかから見つけたという。

雅弘さんは「禎子の本物の…、私が一番欲しかった折り鶴が、見つかったわけですよ…。この折り鶴は禎子が折り始めて、すぐの折り鶴なんですよ」と感慨深げに話す。

罫線が入ったノートを使って折られたとみられる鶴。折ったのは、雅弘さんの2歳下の妹の佐々木禎子さんだ。禎子さんは1955年、12歳で亡くなっている。

兄の雅弘さんは、禎子さんの入院中、病室に吊るされていた折り鶴のほとんどは棺に入れられ、火葬されたと思っていた。今回、遺品のなかから見つけた折り鶴は「もう残ってはいないだろう」と思われていた貴重な折り鶴だったのだ。

あの日 広島の上空で…

1945年8月6日午前8時15分、広島に投下された人類史上初の原子爆弾。この1発の核爆弾により当時の広島市の人口約35万人のうち、9万〜16万6000人が被爆から2〜4か月以内に死亡したとされている。

禎子さんと兄の雅弘さんは、爆心地から1.6キロ離れた自宅で被爆。家は全壊したものの、そのときは2人とも大きなケガはなかったという。

「8時頃だから、家庭は食事時だから、火を使ってるんですよ。そして熱線によって家がみんな燃え出したわけね。だから外は火の海ですよ。逃げて川の土手まで着いたらね…、もう川はね…、死体で、いっぱいですよ。鮮明に覚えているのは、地獄絵みたいな状況…」と雅弘さんは80年前のあの日を振り返る。

被爆したときに僅か2歳だった禎子さんは、その後、小学校に入学。「学校で一番、足が早い」と言われるほど活発な女の子だった。

しかし卒業を間近に控えた頃、禎子さんを病が襲う。「白血病」だった。入院した禎子さんは「千羽鶴を折れば願いがかなう」と病室で鶴を折り続けた。「生きたい」と願ったのだ。

「自分の辛さ、父母に対する心配をかけたくないという思い、それから痛さを、一生懸命、鶴に折り込んだわけですよ」と禎子さんの思いを語る雅弘さん。

禎子さんは、亡くなる直前まで鶴を折り続けたという。

2016年5月 オバマ氏広島訪問

広島・平和記念公園にある「原爆の子の像」は、禎子さんの友人たちが原爆で亡くなった全ての子どもたちの慰霊碑を建てようと呼びかけたもの。モデルは禎子さんだ。

2016年5月、現職のアメリカ大統領として初めて広島を訪問したオバマ元大統領。核なき世界へ向けた国際社会への働きが評価されノーベル平和賞を受賞していた元大統領は、かねてより禎子さんの折り鶴に興味を持っていた。

その後、オバマ元大統領は、周囲から多少の助けを借りながらも自分で折ったという折り鶴を広島の子どもたちに贈ったのだ。

この折り鶴のお返しに「いつか本物の禎子さんの折り鶴を渡したい」と思った雅弘さんらは、オバマ元大統領側とのやり取りを重ね、ついに念願が叶って今回、会うことが決まったのだ。

禎子さんの折り鶴がオバマ元大統領に会う直前、しかも戦後80年という節目に見つかったということで、雅弘さんは運命的なものを感じていた。

「折り鶴が、遺品のなかから出てきたのも奇跡だし、オバマさんにお会いしたいということで(オバマ元大統領から)返事が来て、今回このような時期に折り鶴が出て来たというのが不思議ですよ」と静かに語る雅弘さん。

「だから私は、禎子がこれを仕組んでくれたなと思って…」と遠くを見つめた。

太平洋戦争の終結から80年。「折り鶴はね…、平和を導くための鶴です。だからこの道具を本当に真剣にみんなが平和になりたいという心とともにね、世界中に広めてほしい。それだけです」。今、雅弘さんは、そう願う。

世界で戦争が続いている。今も多くの人々が戦禍に苦しんでいる。戦後80年という節目に見つかった折り鶴は、オバマ元大統領とともに平和を訴え続ける。

(テレビ西日本)

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