明治から大正時代にかけて台湾で教育に当たった、熊本・益城町出身の志賀哲太郎。『台湾・大甲の聖人』と呼ばれ、その人柄と功績は今も語り継がれている。教育者と教え子たちとの絆を見つめる。
台湾へと渡った多くの日本人教師たち
2024年11月、台湾・台北市にある『芝山公園』は〈台湾の教育の聖地〉といわれる場所で、熊本からやって来た旅行客たちの姿があった。かつて台湾に渡った日本人たちの足跡を訪ねる旅だ。

1895年、日本は日清戦争後の下関条約によって台湾を統治することになり、台北に初めての学校『芝山巌学堂』を開いた。

開校から約半年後、日本の統治に反対するいわゆる〈抗日ゲリラ〉が学校を襲撃。6人の日本人教師が殺害された。

彼らは『六氏先生』として祀られ、その遺志を継ごうと日本から多くの教師が台湾に渡った。しかし、疫病や事件などで命を落とす者も多く、ここには台湾で亡くなった教師たちの名前が刻まれた石碑がある。

志賀哲太郎顕彰会の澤田寛旨さんは「実はこれですね、顕彰会の先遣訪問団で(2016年に)最初に来た時にみんなでここにお参りして、どこかにあるはずだと思って、私が見つけました。『あったー!』と私が言ったらみんな寄って来て」と話す。
熊本から台湾へ 聖人と呼ばれる志賀哲太郎
志賀哲太郎は熊本から台湾に渡り、100年前に亡くなった。澤田寛旨さんの祖母の兄に当たる人物だ。今回、志賀哲太郎顕彰会は没後100年を記念して、その足跡をたどる歴史探訪ツアーを企画した。

益城町出身の志賀哲太郎は1896年、31歳のときに台湾に渡り、やがて台中市大甲区で公学校の教員になった。当時の大甲公学校は学問の神様を祀るこの『文昌祠』を校舎としていて、志賀は西側の部屋に住んでいた。

志賀が説いた教育の3つの柱は「慈悲」「倹約」「謙虚」。子どもを学校に通わせるよう親たちを説得し、鉛筆などを持たない子には、自ら買い与えるなどして熱心に教育に当たった。

その努力が実を結び、大甲公学校の就学率は、台湾全土で群を抜く高さとなった。人格者で、若い頃に法律を学んでいた志賀は、統治される側の台湾の人々にとって、さまざまなトラブルから守ってくれる心強い味方でもあったという。

しかし、やがて教え子たちが民族運動に目覚め、統治する側の学校との板挟みとなった志賀は教員の身分を解かれてしまう。そして、1924年12月、生きがいを失った志賀は自ら命を絶った。59歳だった。
没後100年 遺徳語り継がれる志賀哲太郎
ツアー参加者の吉本徹也さんは「大甲の町で代用教員として26年、頑張ったんですが、実際に彼が住んだ所を見て感動しました」と話した。

2011年、大甲区役所は「教師として26年間にわたり1000人余りの学生を教え、優れた人材を育て、台湾に貢献した」として、志賀を『文昌祠』に祀った。26年間、教育のために命をかけた〈聖人〉として大甲区は志賀の功績を伝え、墓前祭を行い、その遺徳を語り継いでいる。

大甲区役所の顔金源区長は「今回、顕彰会の皆さん、熊本から来ていただき、本当にありがとうございます。これからも志賀哲太郎先生の功績を次の世代に伝えていくように努力していきたいと考えています」と述べた。

志賀哲太郎顕彰会の澤田寛旨さんは「志賀先生が本当に一生懸命な気持ちで台湾の子どもたち、大甲の子どもたちを育てたいというのがよく分かりますし、没後100年でもみなさんこのように大事に先生を敬愛しておられるというのが、私、遺族としては大変ありがたく思います」と感謝を述べた。
志賀哲太郎の教えは教え子たちの心に
大甲の街外れにある鐡砧山(てっちんざん)。その中腹に志賀哲太郎の墓がある。

志賀の死後42年たった1966年、100人余りの教え子たちがここに集った。生誕100年記念墓前祭が執り行われ、記念碑が墓石のそばに建てられた。当時の台湾の政治事情では日本人の顕彰など考えられない時の出来事。

「嘘をつかない」「不正はしない」「自分のなすべきことに最善を尽くす」志賀の教えは教え子たちの心に刻まれていた。

志賀哲太郎が眠る墓は一度、大雨による土砂崩れで流されてしまった。教え子たちは志賀の墓を建て直し、「自分が死んだら志賀先生のそばに葬るように」と言い残したという。

「土砂崩れから先生の墓を守る」。そう誓い合った教え子たちの墓は新しく納骨堂となり、今もその場所にある。「聖人」と呼ばれた志賀哲太郎。その墓は今も教え子たちに守られている。
(テレビ熊本)