祖国と母国のはざまで──住民の命を救った通訳兵たち

沖縄戦から80年。太平洋戦争中、アメリカ軍は極秘裏に日本語を話す特殊部隊を創設。動員されたのは真珠湾攻撃以降、敵性外国人とされた日系2世の若者たちだった。彼らは沖縄独自の言葉を駆使して住民の救出に奔走した。戦争終結を早めたと称えられた通訳兵たちは日本と沖縄、そしてアメリカとの狭間で苦悩した。戦後長らく語られなかった通訳兵たちの沖縄戦。彼らは地獄の戦場で何を目の当たりにしたのか。

ヨーロッパ戦線で2度の負傷 そして沖縄戦へその象徴的な存在が比嘉太郎だ。

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沖縄テレビのアーカイブ映像に映るのはハワイの沖縄系2世・比嘉太郎(ヒガ・トーマス・タロウ)。彼はアメリカ軍の通訳兵として沖縄戦に従軍した。比嘉は住民に投降を呼びかけた時のことを振り返り「沖縄の人々は自分に銃を向けないという確信を持っていた」と話した。沖縄戦では各地の自然洞窟(ガマ)で住民が避難していた。比嘉は鉄兜を外し懐中電灯だけを持って日本兵が潜んでいるかもしれない暗闇に入り投降を呼びかけた。

比嘉武二郎、再び故郷へ

同じ沖縄系2世の通訳兵比嘉武二郎。アメリカ・ハワイでで生まれた比嘉は2歳から16歳まで沖縄で暮らした。日米関係が抜き差しならない状況になると日本軍への徴兵を恐れた父にハワイへ呼び戻された。しかし日米開戦によって収容所に送られる恐れがあったため、兵士として沖縄に向かった。

沖縄本島へ向かう輸送船の甲板に立ち少年期を過ごした沖縄の地が見えてくると、比嘉は涙をここらえることができなかった。比嘉はガマの暗闇で怯える住民たちに呼びかけた。「イジチメンソーレ(早く出てきてください)」。少しでも安心してもらおうと考えたのだ。

情報戦を支えた県系2世たち

太平洋戦争が始まる前年の1941年11月、アメリカ陸軍情報部(MIS)は第四軍情報学校を設立した。日本語を話す通訳兵を養成。彼らはサイパンなどの日本占領地で諜報戦を担い次々と戦果をあげた。

ハワイ出身の県系2世・トーマス・イゲは、沖縄に精通した兵士による特別部隊の必要性を軍に進言した。「沖縄には独特の方言や生活習慣がある。住民と日本兵を見分けるには、地元を知る者で構成された部隊が不可欠だ」と訴えた。

この提案は即座に受け入れられ、イゲを含む10人の県系2世が沖縄に派遣された。

イゲは捕虜の尋問について「日本軍には捕虜としての行動規範がなく、驚くほど協力的だった」と報告している。また、住民にまぎれた本土出身兵士も沖縄方言での簡単な質問で見破ることができたと自伝に記している。

2世兵には必ず白人の護衛がついていた。単独で動けば日本兵と間違われて味方に撃たれる恐れがあったからだ。一方でアメリカ軍は通訳兵が日本軍と通じないように警戒もしていた。

沖縄戦に従軍した通訳兵や語学兵は少なくとも322人。太平洋戦争では最多だった。送られたのは2世兵士だけではない。後に日本文化研究の第一人者となるドナルド・キーンも海軍の語学兵だった。キーンは沖縄戦で持久作戦を主導した日本軍第32軍の参謀・八原博通を尋問した。

疑心と悲劇──日本軍の通達が招いたもの

言語を駆使して戦ったアメリカ軍に対し日本軍第32軍は上陸直後の1945年4月9日、「沖縄語を話した場合はスパイとみなして処分する」と通達した。疎開政策に失敗し多くの住民が戦場を彷徨う中で軍事機密の漏洩を恐れたのだ。しかし通達は戦況が悪化していくなか疑心暗鬼となった日本兵によるスパイ排除と称した住民虐殺につながっていく。

トーマス・イゲと共に従軍した儀間真栄は敗残兵の追跡任務中、住民虐殺を目撃した。殺害の実行犯は日本海軍の鹿山兵曹長率いる通信隊だった。

鹿山隊は後に武装解除したが、鹿山曹長は降伏式で儀間に近づき耳元で「もう少しでお前の首をはねるところだった」と囁いた。日本人の顔をした儀間を裏切り者だと断じたのだ。

戦場に分かれた兄弟──儀間家の証言

通訳兵の儀間真栄は任務とは別の目的があった。幼くしてハワイから沖縄の祖父母のもとへ渡った弟の昇を探していた。昇は学徒兵である鉄血勤皇隊に動員されアメリカ軍の捕虜となりハワイの収容所へ送られたことがわかった。兄はアメリカ軍、弟は日本軍として同じ戦場で戦っていたのだ。この出来事を後にハワイの日経新聞が報じると日系社会に衝撃が走った。

儀間昇はハワイで家族と再会したが幼少期を過ごした沖縄を忘れられず、今度はアメリカ陸軍に志願し沖縄に赴任し2017年にこの世を去った。沖縄では軍の諜報員として戦後激動の沖縄社会を見つめた。

昇は生前、取材に思いを語っている。「戦争がもたらす悲劇の深さを語り、二度と繰り返さぬよう努力すべきだ」

非戦の誓いとして

昇が亡くなった2017年にハワイでは捕虜で亡くなった沖縄県出身者の慰霊祭が執り行われた。儀間真栄は失意のなか命を落とした人々の境遇を弟・昇に重ねた。会場では弟の事を知らないかと参列者に声をかけたが新たな情報はなかった。「平和は世界中で実現しなければ未来はない」と語った真栄の言葉には複雑な思いを抱きながら戦後を送った兄弟の苦悩が垣間見えた。

ウチナーグチで住民の命を救った比嘉武二郎も2017年に亡くなっている。2014年、最後に沖縄を訪れた比嘉はアメリカ軍普天間基地にあるガマに立ち寄った後、若い兵士たちに語り掛けた。「破壊を目的とする戦争を私は憎む。戦争とは人間の非常にばかばかしい業である」

沖縄系の2世兵部隊創設を提案したトーマス・イゲは戦後、経済学者として活躍した。戦時中の葛藤を手記にこう記している。

自伝「カハルウの少年」より
「アメリカ軍と共に沖縄で戦うことは辛い経験だった。洞窟に隠れ逃げ惑う住民を見るたび、もしハワイに移住していなければ自分や家族はどんな運命をたどっていただろうかと胸が締めつけられた」

戦後80年。二つの祖国の狭間(はざま)で苦しみ抜いた通訳兵たちの多くがこの世を去った。彼らが訴えた平和への思いを忘れてはいけない。

(沖縄テレビ)

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