昭和後期のプロ野球に偉大な足跡を残した偉大な選手たちの功績、伝説をアナウンサー界のレジェンド・德光和夫が引き出す『プロ野球レジェン堂』。記憶に残る名勝負や“知られざる裏話”、ライバル関係とON(王氏・長嶋氏)との関係など、昭和時代に「最強のスポーツコンテンツ」だった“あの頃のプロ野球”、令和の今だからこそレジェンドたちに迫る!

阪神タイガース一筋で19年、名ショートとして活躍し阪神生え抜きの選手として初めて2000本安打を達成した藤田平氏。通算2064安打、首位打者1回、ダイヤモンドグラブ賞3回。1978年には208打席連続無三振のプロ野球記録(当時)を樹立した“虎の安打製造機”に徳光和夫が切り込んだ。

【中編からの続き】

優勝へのマジック1も…

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1973年のペナントレース、阪神は2試合を残してマジック1とし、あと引き分け一つで優勝だった。しかし、ナゴヤ球場で中日に4対2で敗れてしまう。勝ったチームが優勝という甲子園で迎えた最後の大一番でも巨人に9対0と大敗。巨人がセ・リーグV9を達成した。

徳光:
藤田さんにぜひお聞きしたいのが、残り1試合でひとつ勝てば優勝だった73年です。これは、藤田さんにとってやっぱり忘れられないシーズンですか。

藤田:
あのときは中日に負けて巨人に負けて…。

田淵幸一氏
田淵幸一氏

この中日に敗れた試合について、田淵幸一氏は「プロ野球レジェン堂」に出演した際、「星野仙一氏から『俺は打たせてやろうと思って、甘いボールばっかり放ったんだよ』と打ち明けられた」と語っている。
しかし、阪神打線は星野氏を攻略することができなかった。

徳光:
なぜ、あのとき星野さんを打てなかったんですかね。

藤田:
ピッチャーというのは、そういう気持ちで軽く放るときはいいボール来るんですよ。星野さんは「打たしてやろう」と放ってくれてるんだけど、球は生きとるわけよね。
中日でライトを守ってた井上(弘昭)が、池田(純一)さんが打った打球をフェンスによじ登って捕ったんです。それが入ってたらスリーランだったんですけどね。星野さんはマウンドで怒ってましたよ。「捕るな!」って。

徳光:
(笑)。

藤田:
あの試合で、江夏が先発するっていうのは「ええっ?」っという感じやったね。上田次朗で行くんかなと思ってた。次朗は、あの年、中日戦で8勝しとったんですよ。だから必ず上田が行くだろうと。相手チームもそう思ってたと思うんです。コーチの岡本(伊三美)さんが間違いじゃないかって、監督にもう一度聞きに行ったっていうぐらいですからね。

徳光:
へぇ。

藤田:
まあ、これには、いろんな憶説があってね。言えないところもありますけどね。

徳光:
でも、あそこで阪神が勝っていれば、その後もちょっと違ったでしょうね。

藤田:
違ったでしょうね。僕は1回も優勝経験がないんです。

徳光:
そうなんですよね。

藤田:
だからあの年に優勝していれば…って、すごく悔やむところなんだよね。

なぜか打率3割に届かない“阪神の七不思議”

徳光:
2年目で154本のヒットを放って最多安打。ところが、不思議なことに3割は打ってなかったんですよね。
その後もなかなか3割に届かない。3割へのこだわりみたいなものは、かなりおありになりましたか。

藤田:
ありましたね。「あんだけヒットを打って、なんで3割打てへんの」って、僕もよく言われたし、“七不思議”みたいな感じ。

徳光:
阪神ファンの間で、“七不思議”って言われてたんですよね。

藤田:
打数が多いんですよね。初球から打つほうだからフォアボールが少ないんです。

徳光:
3割打てないことは気にしてましたか。

藤田:
してました。

徳光:
どうにか3割を打とうということで、フォアボールを多くしようとか、そういう考え方はなかったんですかね。

藤田:
1球目から打っていく性格だったんで、選んで打つことが苦手だったんやね。

徳光:
そして入団9年目についに3割を達成。これは忘れられないでしょう。

藤田:
実はその年は結婚した年なんですよ。

徳光:
そうなんですか。

藤田:
女房も「結婚したからあかんようになった」と言われたくないと思うし、それで3割打てたと思うんですけどね。

掛布雅之氏
掛布雅之氏

藤田氏の結婚については、掛布雅之氏が「プロ野球レジェン堂」に出演した際、「藤田平さんが結婚式でゲームを休んだため、代わりの選手として一軍に呼ばれたのがレギュラー定着のきっかけ」と話していたが…。

藤田:
3月21日のオープン戦で、結婚してる場合じゃないんですけど、和歌山で結婚式を挙げまして、そのとき、掛布がちょうどデビューした。徳島で試合があって3本くらい打ったんかな。それで掛布がレギュラーをつかんだということですね。

徳光:
掛布さんはドラフト6位で1年目ですからね。

藤田:
そうですよ。僕のお陰ですよ(笑)。

ファースト転向に「これならもっと打てる」

徳光:
ショートでトップバッター、あるいはショートでクリーンナップ。これが藤田さんの野球人としての美学だと思うんですけれども、ファーストを守ったときはどんな気持ちでしたか。

藤田:
真弓(明信)が入ってきたときに、ファーストに行ったんですけど、「こんだけ楽な所はないな」と思った。

徳光:
そう思ったわけですか(笑)。

藤田:
「もっと早く気付いたらよかった。こんなに楽やったら打てるわ」と思ったもん。

徳光:
(笑)。

藤田:
なんて言うんかな、打球が飛んだら一塁に入って、送球を受けてたらいいでしょう。

徳光:
まあ、そうですね。

藤田:
左バッターに気を付けたらええだけでね。「こんな楽なポジションがあんねや」と。ショートを守ってたから特に思ったね(笑)。

肉離れで渡米手術…ノーラン・ライアン氏を目撃

藤田氏は1979年4月の守備で左足太もも肉離れのケガを負い、1年間戦列を離れた。

藤田:
ズッと滑って、股裂きのような形になって。
当時の監督はブレイザーだったんですけど怒り出してね。「日本の医者は1カ月や2カ月で治るとか言ってるけど、治ってこんやないか」ということで、それで「アメリカに行ったらどうや」とラインバックが言ってくれたんですよ。

徳光:
そうなんですか。

藤田:
監督や会社と話をして、アメリカに行ったんです。だから、4月にケガしてアメリカへ行ったのは7月。

徳光:
リハビリ中、メジャーの試合を見に行ったりなんかしたんですか。

藤田:
見に行きました。現役でメジャーの試合を見に行ったのは僕ぐらいしかおらんやろね。

徳光:
そうでしょうね(笑)。

藤田:
ロサンゼルスでの手術でしたから、ドジャースもエンゼルスも見にいきましたよ。両方見た。全盛期のノーラン・ライアンとかおったし。

徳光:
現役の選手がノーラン・ライアンを見たんですか。

藤田:
三振をダダダダと取って、すごいピッチャーだと思いました。
そのとき、すごく勉強になったのは、メジャーの選手はベンチも楽しんでやってる。ヒマワリの種を食べながら…、ペッ、ペッ、ペッってやりながら…、ガムを噛みながら…とかやってるじゃないですか。「楽しんでるやん。よし、楽しもう。僕は一回終わった選手だし」と思ってね。楽しんでやろうという感覚でやったら、首位打者を取れたんですよ。

徳光:
はぁ、なるほど。そうですか。

憧れられた篠塚氏との首位打者争い

1981年に藤田氏は初めて首位打者を獲得する。巨人の篠塚和典氏と激しい首位打者争いを演じ、先にシーズンを終えた篠塚氏の打率は3割5分6厘7毛、シーズン最終日のダブルヘッダーで規定打席に到達した藤田氏が打率3割5分7厘7毛と、僅か1厘差だった。

徳光:
篠塚さんは藤田さんに憧れていんですよ。

藤田:
そうそう、彼と何回も会って話したからね。私のビデオを見て…。

徳光:
相当研究したみたいですね。

徳光:
その篠塚さんと首位打者争いですよ。

藤田:
僕が打ったら彼も打つし、どんどん追いついてくるし。
その年、最後の試合で僕がヒットを打った。それで首位打者になったんですよ。ダブルヘッダーでね。打席数が足らなかったんで丁度良かった。

徳光:
打席数が足りなかったんですか。

藤田:
結膜炎でね。球団職員が結膜炎になって、中村勝(広)にうつったんです。僕ら新幹線でいつも隣同士だった。それで僕にうつった。

徳光:
結膜炎で試合休むって結構珍しいケースですよね。

藤田:
視力がちょっと落ちましたから。左目が1.5なのに右目が1.0になるとかね。

徳光:
そうなると全くダメですか。

藤田:
全然違います。眼鏡かけてやったこともあるんですよ。でも、急に眼鏡かけてバッティングなんてなかなか無理だし。

徳光:
本当に最終列車に間に合ったという感じですね。1厘差で首位打者を取ったときはどうでした。

藤田:
やっとですよね。やっと取れたという感じです。
もっと前にもチャンスがあったのよ。僕、オールスターまで3割4分ぐらい打ったことがあったんです。そのとき、盲腸になったんです。

徳光:
そうですか。

藤田:
医者が「切らなあかん」って言って、盲腸を切って10日くらいでサラシを巻いて代打で出ましたよ。フラフラしながら代打で出ても、打てないですよね。
“盲腸(もうちょう)”で、首位打者に”もうちょい”ですわ(笑)。

徳光:
(笑)。盲腸ではダメだったんですが、結膜炎では取れたわけですね。

球団史上初…生え抜きで2000本安打達成

藤田氏は首位打者を取った2年後、1983年5月3日の巨人戦で角三男氏からレフト前ヒットを放ち2000本安打を達成した。阪神の生え抜きとしては初の2000安打だった。

藤田:
王さんからお花を頂いて。

徳光:
あの演出は感動的でしたね。王さんに渡されたのはうれしかったでしょう。

藤田:
うれしかったですね。

徳光:
やっぱり2000本というのは感慨深いものがありましたか。

藤田:
ありましたね。
5試合ぐらいヒットが出なかった。甲子園で家族がみんな来とってね、花束を用意してるんですけどね、出ないんだよね。後楽園に来たらポンと出たんですよ。

徳光:
そうだったんですね。その翌年、1984年に引退を決意される。私は見ていて、まだ十分にやれるなって思ってたんですが、ご自身はいかがでした。

藤田:
いや、僕は自分で引退って言ったことはないんですよ。

徳光:
そうなんですか。

藤田:
当時、安藤(統男)監督だった。僕はやるつもりで秋季キャンプ行っとったんです。そしたら、安藤監督に呼ばれて、「来年からコーチをしてくれ。現役、もうええやろ」という話だったんでね。あんたに「ええやろ」って言われることはないやろなと思ってね。「球団と話をさせてくれ」って言いましたよ。球団が出てこないんだもん。阪神得意の…。

徳光:
でも、コーチはどうして引き受けなかったんですか。

藤田:
生半可な気持ちでは引き受けられんでしょう。やっぱり勉強してから選手を教えないかんし、僕もそんな準備はまだしてなかったし。

徳光:
でも、その翌年に優勝したんですよね。

藤田:
優勝した。

徳光:
球団にいれば優勝の経験ができたんですよ。これはちょっと悔いが残りませんでしたか。

藤田:
……。まあ、仕方ないかということもありますわ。
放送席から優勝を見とったんですけど、神宮で優勝したときに岡田(彰布)だけが誘ってくれました。岡田から「飲みに行きましょうか」って電話かかってきてね。彼だけですよ。あいつはそういう心遣いを持ってますよ。

徳光:
そうですか。ちょっと岡田さん好きになっちゃうな。

(BSフジ「プロ野球レジェン堂」 24/10/8より)

「プロ野球レジェン堂」
BSフジ 毎週火曜日午後10時から放送
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