96歳の築城昭平さんは、長崎で最高齢の「語り部」だ。これまでに1200回を超える被爆講話を行い、今も若い世代に向けて平和の大切さを訴え続けている。(※築城昭平さんの年齢は取材当時)
18歳の時、長崎で被爆
被爆者の築城昭平さんはこの日、修学旅行で長崎を訪れていた東京の高校生に向けて体験を語った。

築城昭平さん(96):僕が一番大事だと思うのは今から78年前に受けた原爆による被害ですね。もうほとんどの人が被爆した人は亡くなっておるんですけれどこうして生き残っているのがおるんですね。君たちは直接体験者から話を聞くなんてことは、もう今後はあり得ないと思います。そういうつもりでしっかり話を聞いてもらいたい

築城昭平さんは1945年8月9日、爆心地から約1.8kmの寮で被爆した。
当時18歳だった築城さんは、「バーン、ガガガガっという音で目が覚めた」と振り返る。隣で寝ていた友人は「赤鬼」のように真っ赤になり、自身も血だらけになっていたという。原爆投下により、約7万4000人の命が奪われた。

講話を聞いた高校生は「近所の人の顔が焼けていたり 想像しただけで怖いのに実際自分の目で見たというのは辛かっただろうなと教科書から分かることだけだと実感がわかなかった。本当に体験した人から聞くと、その時のつらさや思いが感じられた」と涙なみだながらにインタビューに答えた。
平和教育の礎を築いた「被爆教師」として
長崎県内のほとんどの学校では、原爆が投下された8月9日を「登校日」にしている。子供たちは「平和教育」を通して被爆者の悲惨な体験について、様々な形で学んでいる。築城さんが被爆体験を語り始めたのは、今から半世紀以上前の1970年頃だ。

中学校の数学教師だった彼は、ホームルームや道徳の時間に生徒たちに話をしていた。「核兵器がどんなに悲惨なもので、戦争に使っちゃいけないのかを理解してもらいたい」と、築城さんは語る。築城さんはこんにちの平和教育の礎をつくった「被爆教師」の中心的存在だった。平和教材「ナガサキの原爆読本」は、約50年前、築城さんが被爆教師の仲間と共に刊行したものだ。
築城昭平さん(96):被爆者の体験を端的にまとめていこうと子供たちが知らないから本当に長崎はこんな悲劇があったんだということを心から知るようになってほしいと思って、それが平和につながっていくんだ平和を愛する心につながっていくんだと。

しかし、「原爆」を原点とする平和教育を否定する考えもあった。「教育委員会やら校長たちが『そういう話をしないように』と圧力がありました」と築城さんは当時を振り返る。それでも彼は、教師を退職後も「被爆体験の継承」の重要性を訴え続けた。

これまでに1200回をこえる被爆講話をしてきた築城さん。現在は修学旅行生を中心に年間50回の講話を行っている。
次世代への継承
今、築城さんが力を入れているのは次世代への継承だ。

大学生の三宅杏風さんは、築城さんの体験を学び、次の世代に語り継ぐ「交流証言者」になった。三宅さんは「被爆者とのマッチングの場で初めて築城さんの話を伺いました。次の世代に伝えたい、語り継ぎたいという強い思いが伝わってきて…」と、バトンを受け継いだきっかけを語る。

「原爆投下から1カ月ほどして 私と同じ症状を持つ人が 次々と亡くなっていきました。 私は『次は僕の番だ。もうだめだ』そう思っていました。怖いという感情はありましたが、それよりも覚悟が先に立つのです。『ああ、俺は死ぬ』そう思いました。そうしながら 死んだらどのようになるのかを考えていました」~三宅さんの講話より~

三宅さんのような「交流証言者」について築城さんは「ありがたい。今まで(被爆体験を)伝えていた同じ年齢の仲間たちがみんな死んでしまった。亡くなったことを聞いた途端に『ああ、これで話がひとつ終わった』と感じるようになって、ぜひ後継者が必要だという感情を持つようになった」と語る築城さんだが、語り部を引退するつもりはないという。長崎の被爆者の平均年齢は85.01歳と85歳を超えている。(2024年3月末時点)
90歳を超えてからの挑戦
築城さんは毎週欠かさず続けているものがある。「囲碁」だ。築城さんは「長生きの秘訣」と語り、熱が入ると思わず立ち上がる場面も。

そしてもう1つ、続けていることがある。90歳を超えてから取り組み始めたのは英語学習だ。

「原爆の被災については、日本人だけじゃなくて世界の人に話をしないといけないと思う。前は通訳を通して話をしとった。やっぱり自分自身で話をするべきだという気持ち」と、築城さんは英語での講話に取り組む理由を説明する。
この日築城さんは、国立追悼平和祈念館で、海外の外交官などに向けて英語で講話を行った。

築城昭平さん(96):I saw faces without eyes, noses, lips or ears.Red skin hung down from their faces and bodies. I thought it was like a hell.(私は目や鼻、唇、耳がない人を見ました。赤い皮膚は顔や体から垂れ下がっていました。地獄のようだと思いました)
築城さんは必ず最後に伝える言葉がある。

築城昭平さん(96):We must never use it again. If we ever use it again, it will truly be the end of the world. Please don’t forget this old man’s prayers for the peace.(私達は二度と核兵器を使ってはいけません。もし使えば本当に世界が終わります。この老人の平和のための言葉をどうか忘れないで)

講話を聴いたカナダ人:長崎の経験について読んだことしかありませんでしたがここに来て彼の話を聞いて言葉で言い表せないものだと知った。もし彼がここにいなかったら、私は今感じていることを感じず、“核兵器を無くそう“という彼のメッセージに共鳴していなかったでしょう
講話を聴いた外国人からよくあがる質問がある。

講話を聴いた外国人:「戦争を早く終わらせるキッカケになった」とアメリカで、原爆投下を正当化する主張が根強いことを、どう思うか?
その質問に築城さんは「もっと早く日本が降伏をしていればこういう悲劇が起こらなかっただろうと思うんですけどこの核兵器を使ったということはやっぱり戦争犯罪だと思っています。核兵器は存在している限り戦争の度脅しに使われると思うんです」と答えた。

2023年12月、長崎市で初めて開かれた「国際賢人会議」では、アメリカや中国、ロシア、インドなどの核保有国と非核保有国、双方の有識者が核軍縮の道筋について議論した。この機会に合わせ、外務省は参加者が築城さんの声を聞く場を設けた。

96歳となった今も、築城さんの平和への思いは変わらない。

「できたら世界を回りたいんですけど、とても回りきらん。足が悪くて。なんとかして長生きをできるだけして、できるだけ話を続けていきたいと思っている」と、語り部としての使命を全うする決意を語った。
取材・松永悠作(テレビ長崎)