「『ママ、スイスに行っていいよ』って言ってくれてありがとう。みんな、元気でね」
異国での安楽死を選んだマユミさん(当時44歳)は、最期にこう言い残して息を引き取った。
それから1年たった2024年11月。一周忌に夫と19歳、13歳の娘が、マユミさんのお墓に参った。
マユミさんは生前、希少がんに体をむしばまれていた。あっという間に脳にまで転移し、治療は困難に。悩んだあげく、安楽死が認められているスイスで生涯を終えることを決めた。
妻の決断をすぐには受け入れられなかった夫。思いを母に伝えられなかった娘たち。残された3人には、1年たってようやく明かせる胸中があった。
ママが“安楽死”と出会った日。“安楽死”を決めた日
マユミさんは、2021年1月に子宮頸がんと診断された。神経内分泌腫瘍という進行が速い希少がんだった。2カ月後には膣への転移が分かり、抗がん剤治療を開始。
並行して始めた放射線治療で入院中、マユミさんがネットで偶然見つけたのが安楽死の情報だった。
安楽死は日本では認められておらず、いまのところ法整備に向けた大きな動きはない。
一方、オランダや米国の一部の州などでは認められており、先月にはイギリス議会で終末期患者の「安楽死」を認める法案が可決。
1941年に事実上の合法化をしたスイスでは、約2%の人が安楽死で人生を終えている。2016年に合法化したカナダでは3%を超えており、欧州を中心に安楽死は珍しい選択肢ではなくなってきている。
当時のマユミさんにとって安楽死は、「自分からは遠く、手に届くところにはない」ものだった。
ところが、初めてがんが見つかった翌年に膵臓、さらには肺への転移も判明。抗がん剤や放射線のほかに新薬も試したが、進行は止まらない。マユミさんの心の中で安楽死が現実味を帯びていった。
そして2023年10月。頭皮に10カ所ほどの転移が見つかり、MRI検査で脳への転移もわかった。これが、安楽死を現実の選択肢とするきっかけとなった。
命を巡って夫婦げんか…ママに本音を言えなかった12歳の娘の葛藤
脳が冒されると、すぐに体に影響が出始めた。左半分が見えなくなるほど視界が狭まった。物にぶつかることが増え、得意の料理もできなくなっていった。
何より、認知機能に大きく影響する可能性のある脳転移は、マユミさんにとって耐えられないものだった。
病院からの帰路、マコトさんが運転する車中で、マユミさんが切り出した。
「安楽死をしたいと思っている」
すでに安楽死をサポートするスイスの団体とも連絡を取っており、実行の日まで1カ月もなかった。マコトさんにしてみれば、すぐに受け入れられる話ではない。
なぜ今なのか?
まだ頑張れるのではないか?
他に手段はないのか?
疑問だらけのマコトさんは、妻を止めようと必死だった。それでも、マユミさんの意思は固かった。
マユミさんが安楽死を口にしたのは、それが初めてではなかった。
2022年には「もしものために」と、診断書などの書類を英語で揃え、医師の審査を経て、スイスの団体から「安楽死する許可」を得ていた。その事実はマコトさんも承知していた。
「そういう考えは起こさずに、なんとか頑張ってみようよ」と励まし、その度にマユミさんもなんとか耐えてきた。だが、この時は違った。
頭皮に転移したがんは、日に日に肥大化していくのが目に見えて分かった。
「このペースで脳ががんでパンパンになっていくのは耐えられない」
不幸はさらに重なる。脳の放射線治療をするには、患部に確実に照射するため頭を固定しなければならない。マユミさんの頭皮のできものは、もはや固定できないほど大きくなっていた。
スイスへの飛行機に乗ろうにも、大きくなった脳の腫瘍が気圧変化の影響を受ける可能性が出てきた。
もう時間がなかった。
「生きられるなら私だって生きたい。子供たちの成長も見届けたい。それでも、認知機能を奪われて、自分が自分じゃなくなる前に、みんなとお別れをしたい。私はもう、覚悟を決めています」
けんか腰の話し合いになった。ただ、苦しむ妻を見てきたマコトさんは、あらゆる葛藤を経た上での決断を覆すのは「申し訳ない」と感じたという。
妻の決断を受け入れた。
長女のメイコさんは高校3年生だった。母から安楽死の言葉を初めて聞いた時は、冗談かと思ったという。それでも、数週間後に渡航すると聞くと、「悲しいけど、お母さんが決めたことなら応援します」と受け止めた。
一方、マユミさんが最後まで気にかけていたのは、まだ小学6年生で12歳の次女・マコさんだった。
どう伝えればいいのか。
「娘はきっとスイスに行ってほしくないと思っている。それでも、直接は言えないんだと思います」
娘たちの胸中は痛いほど分かる。そこでマユミさんが次女へ伝える手段として選んだのは、大人になっても見返せる手紙だった。そこにはこう書かれていた。
「悲しい話をします。ママはもう体がつらくて、これからはもっとひどいことになるから、11/9にスイスで死をむかえようと思ってます。11/5に出発します。
マコの受験、応援してるよ。そばには居れないけど、いつも応援してるからね。マコが大人になって、仕事したり、子供が出来たり、マコのこれからの人生がすばらしいものになるよう祈ってます。
マコなら大丈夫!!大すきだよ♡ずっとずっと応援してるからね♡」
小学生のマコさんにとって、その複雑な思いを言葉にして母に伝えることはあまりに難しかった。
「中学受験が終わるまでは、一緒にいてほしかった」という思いは、今だから言える少女の本音だ。
母娘の最後の別れの場は空港だった。翌週には受験がある。そう思っての決断だった。
「最後は爽やかにバイバイしたい」。母が漏らしたこんな言葉を、娘たちは忘れていなかった。
だから、保安検査場で両親の姿が見えなくなるまで、笑顔で手を振り続けた。涙が止まらなくなったのは、両親が視界から消えた瞬間からだ。空港のベンチで、1時間泣き続けた。
母にやるせない思いを言えなかった次女のマコさんは、機内のマユミさんとLINEでこんなやりとりをした。
「ママは安楽死したいの?」(マコさん)
「しなくてもいいならしたくないけど、安楽死しなくても、もうすぐ死んじゃうんだよ」(マユミさん)
「可能性は一個もないん?」(マコさん)
「ない。だから少しでもいい形でみんなとお別れしたくて、ママの苦しんでいる姿を見せたくないなと思って、いっぱい悩んだけど安楽死を選びました」(マユミさん)
スイスでの医師との面談で、マユミさんはこう聞かれた。
「娘さんたちが来なかったのは、なぜですか?」
「来てもらったほうがいいのか、来ないほうがいいのか、答えが出ないまま時間が迫ってしまった」
うそ偽りのない、正直な思いだった。
死の当日。娘たちは母とテレビ電話をつなぎ、「ママ、気持ち大丈夫?」と何度も声をかけた。
医師が最後の意思確認をする。
マユミさんは、致死薬の入った点滴のバルブを開けた。
「出会ってくれてありがとう」
マコトさんが、マユミさんを抱き寄せる。
娘たちは「大好き。また会おう」と声を掛ける。
「『ママ、スイスに行っていいよ』って言ってくれてありがとう。みんな、元気でね」
その言葉を最後に、マユミさんは息を引き取った。
今でも考えてしまう「もし」 1年たったことで明かせる胸中
1年後の一周忌。正装したマコトさん(49)、メイコさん(19)、マコさん(13)は、マユミさんのお墓を訪れた。墓石には、絵が得意だったマユミさんが書いた娘2人のイラストが彫られていた。
マコトさんが墓石に水をかけると、マコさんは「水かけたらママが寒くない?」。マユミさんがお墓に入ってから、初めての秋。
墓前で手を合わせる3人には、それぞれの思いがあった。
マコトさんは今でも、「もし」を想像してしまうという。
「スイスまで付き添って、苦しまずに最期を迎えるのを見られたこと。それは本人の希望でもあったので、そこは良かったかなと思っています。
でも、もし放射線治療のための固定器具が作れていたらどうだったんだろうと、今でも思ってしまいます。もう1週間早く気付けていたらって」
脳への転移が分かる2カ月前の脳検査では、異常なしと診断されていた。わずかの時間差だった。
マコトさんの中には、もう1つの大きな「もし」がある。
「もし日本で安楽死が認められていたら、もう少し一緒にいられたかもしれない」
その思いは、娘たちも同じだという。
「幸せを全部子供にあげて」ママの願いを胸に前へ進む家族
家族は3人で新たな生活を始めた。
マコトさんは、娘たちのためもあってフルリモートで働ける会社に転職。メイコさんとマコさんは、それぞれ希望の大学と中学に進学した。
母がいつも作ってくれていた料理は、長女のメイコさんが週に2回担当。それ以外はマコトさんが作っている。
月命日に開かれたお別れ会には、マユミさんのママ友や同僚、娘たちの友達が集った。
「なんかあったら言ってな」
そんな言葉をママ友から掛けられた娘たちは、屈託のない顔で言葉を返す。
「娘たちには、自分のことを忘れてしまうくらい、人生に夢中になってほしい」
マユミさんのこんな願いを知っているかのような笑顔だ。
マコトさんには、マユミさんからの頼まれ事がある。
「私がこの先もし生きていたら受けられるはずだった幸せを、全部子供にあげてください」
その言葉が、今は何よりもの「生きなきゃいけない理由」だ。
「あと10年くらい、次女が大学を卒業するまでは頑張らないと。幸せが余ったら、ボクにもくれると言っていたので」
マコトさんの部屋には、マユミさんが娘たちに残した何年分もの誕生日カードが大切に積まれている。
これからの成人式や結婚式で贈られるメッセージカードと共に。
(取材・記事/山本将寛)