昭和後期のプロ野球に偉大な足跡を残した偉大な選手たちの功績、伝説をアナウンサー界のレジェンド・德光和夫が引き出す『プロ野球レジェン堂』。記憶に残る名勝負や“知られざる裏話”、ライバル関係とON(王氏・長嶋氏)との関係など、昭和時代に「最強のスポーツコンテンツ」だった“あの頃のプロ野球”を、令和の今だからこそレジェンドたちに迫る!

日本プロ野球界初のスイッチヒッター・柴田勲氏。盗塁王に輝くことセ・リーグ最多の6回、通算盗塁は歴代3位の579。通算2018安打。「赤い手袋」をトレードマークにダイヤモンドを駆けまわった“巨人V9戦士”の1番バッターに德光和夫が切り込んだ。

投手でプロデビュー

徳光:
柴田さんと言えば「赤い手袋」、センター、盗塁王と、バットマンとして超一流だったんですけど、ピッチャーとしても投げてたわけですよね。

柴田:
徳光さん、覚えておいてください。僕、開幕シリーズのピッチャーですよ。
ルーキーで1カ月ぐらいピッチング練習してて、川上(哲治)監督が突然、「肩の調子どうだ」って言うから、「いや、まあ、なんとか」って答えたら「一回投げてみるか」って言われて、「嫌だ」とは言えませんよね。「はい、投げます」って投げたら勝っちゃったんですよ。相手は西鉄ライオンズです。

徳光:
それ、オープン戦? 18歳でしょ。

柴田:
そう。「神様・仏様・稲尾様」のチーム。豊田(泰光)さん、中西(太)さんを相手に勝っちゃったんですよ。
それで、昭和37年の開幕シリーズ、阪神が相手で第1戦が小山(正明)さん、第2戦が村山(実)さん。僕は村山さんと投げ合ったんですよ。

徳光:
高卒ルーキーがいきなり?

柴田:
4点取られて負け投手になったんですけど、それで肩を壊して、それっきりで終わりです。

徳光:
でも、その後も投手として投げてますよね。

柴田:
それは敗戦処理とかですね。

ミスターと100m競走

セ・リーグ最多となる6度の盗塁王に輝いた柴田氏。その俊足ぶりはルーキー時代から異彩を放っていた。

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柴田:
ある日、試合が終わったら雨が降ってきたんですよ。そしたら、川上監督が突然マイク持って、お客さんに「いまから、話題の新人の柴田と長嶋を陸上競技場で100m競走させるので、よかったら見物に来てください」って。お客さんサービスですよね。
僕はそのことを全然知らなくて、ピッチングが終わって運動靴を履いてたら「おい、柴田、長嶋と走れ」と言われて、「ああ、そうですか」と走ったら、僕が勝っちゃったんですよ。

徳光:
ミスターも足が速かったですけどね。

柴田:
あのとき、ジャイアンツで一番速いのはミスターだって言われてたんですけど、長嶋さんはスパイクで僕は運動靴で勝っちゃったんです。
そのときに川上さんは「柴田はバッティングもいいけど足も速い」っていうのが印象づいたんだと思います。

スイッチヒッター誕生の秘密

柴田:
それで、開幕してから2カ月半ぐらいしか経ってない6月に川上さんに呼ばれて、「肩が痛いんだったら、バッターに転向したらどうだ」って言うわけですよ。「いや、もうちょっと投げたいんですけど」と答えたら、「そうか。じゃあ、投げとけ」とか言って投げさせられる。
1カ月ぐらいしたら「もう一回行け」と。中日戦で投げてノックアウトされたんですよ。
試合が終わると川上さんが「もうピッチャー諦めろ」って。否が応もないですよね。もう「嫌です」とは言えないですよ。一回言っちゃってるから。
その場で、「日本のモーリー・ウィルスになれ」って言われたんですよ(笑)。

モーリー・ウィルス選手は、当時、メジャーリーグのドジャースで活躍していた俊足巧打のスイッチヒッター。1960年から6年連続で盗塁王を獲得した。

徳光:
メジャーリーグ通しか知らない選手ですよね。

柴田:
徳光さんも知っていたんだろうけど、当時、その映像か写真を見たことあります? ないでしょ。僕も見たことない。川上さんも見たことなかったと思うんですよ。
ドジャースの野球を勉強しにアメリカに行った牧野(茂)さんしか見たことがない。

牧野茂コーチは、組織的野球戦術「ドジャース戦法」を研究し、名参謀として巨人V9に貢献した。

柴田:
牧野さんが帰ってきたときに、「ドジャースにモーリー・ウィルスっていう104盗塁してMVP取った1番打者がいる」って。

徳光:
時々、新聞に名前が出てましたよね。

柴田:
「モーリー・ウィルスはスイッチヒッターなんだ」と言った川上さんも分かってなかったと思うんですよ。実際には見たことないんだから。
「スイッチでバットを短く持ってショートの方にパーンとゴロ打って走るんだ」と言われて、8月からスイッチヒッターを始めたんです。
実は僕は最初、ショートだったんです。それは、モーリー・ウィルスがショートだったから。

徳光:
当時の巨人のショートと言えば…

柴田:
広岡(達朗)さんです。
それで、川上さんが言ったこと。「広岡も、もう年だから」(笑)。

徳光:
そんな頃から仲が悪かったんだ(笑)。

柴田:
あんまり大きな声じゃ言えないけどね(笑)。
広岡さんの後ろを付いていって、ショートの練習をしましたよ。そしたら、広岡さんが「センスがないから辞めたほうがいいんじゃないか」って。
内野手、それもすぐにショートっていうのは難しいですよね。外野は高校時代に守ってましたけど、内野なんか守ったことがない。

徳光:
外野手への転向は誰が進言したんですか。

柴田:
入団翌年のキャンプはショートで練習してました。
二軍戦で僕は1番ショートで出て3本ヒット打って2盗塁したんです。それを川上さんが見てたのか分かりませんけど、キャンプの終わり頃、川上さんに呼ばれて、「ショートだとちょっと時間がかかる。すぐ明日から外野に行け」。それで外野手転向です。その日からセンター・柴田が生まれたんです。

スイッチ初スタメンで初ホームラン

右打ちだった柴田氏。日本プロ野球界初のスイッチヒッターに挑戦したものの、左打ちにはやはり苦労したと言います。

徳光:
スイッチヒッターは柴田さんが最初ですよね。最初から左でスムーズに打てたんですか。練習は相当されたんですかね。

柴田:
苦労はしました。9割は左で練習してましたね。
当時は左ピッチャーの方が少ないから、右で打つ機会の方が少ない。打席に10回立ったら8回は左、2回が右っていう感じかな。

左打ちではバットを短く持つ柴田勲氏
左打ちではバットを短く持つ柴田勲氏

柴田:
左打ちのときは、まずは右打ちのときと同じように右拳を上にしてバットを持つんです。それから、下にある左拳をそのまま右拳の上に持っていく。そうすることでグリップエンドから拳1個分開けてました。「短く持って」って言われたから。
それでもね。短いから長打が打てないことはなかったですよ。
それと、右のときの方がちょっとバットのグリップが細かったんです。

徳光:
右と左とでバットを変えていたんですね。

柴田:
初スタメンは広島戦だったんですけど、その試合で左で初ホームラン打ったんですよ。長谷川(良平)さんから。翌日、大石(清)さんというエースから、また左でホームラン。2試合連続で左でホームランを打ったんですよ。
そこから、ずっと1番バッター。

徳光:
今でこそ、高校生でも当たり前にスイッチヒッターが出てくるようになりましたけど、それも柴田さんが道を切り拓いて2000本打ってるからですよね。

(BSフジ「プロ野球レジェン堂」 24/4/9より)

【中編】へ続く

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