高知市比島町の交通公園で長年、子どもたちに親しまれているSL。先日、高知さんさんテレビの取材で、このSLは昭和天皇が乗った「お召し列車」だったことが判明したとお伝えした。この物語には続きがある。
1970年に撮影された写真には、開園前の交通公園に大型クレーンがSLをつり下ろす様子が写っている。SLを高知駅から交通公園に輸送する“大作戦”が行われたのだ。
当時、この大仕事を担った男性2人が、その舞台裏を初めて明かした。
54年前の開園時に旧国鉄から提供
高知市比島町の「比島交通公園(高知県立交通安全こどもセンター)」にある県内唯一のSL(蒸気機関車)は1943年(昭和18年)から25年間、JR土讃線で活躍し、1970年(昭和45年)の交通公園開園に合わせて旧国鉄から提供された。
この記事の画像(12枚)7月、このSLは1950年(昭和25年)に昭和天皇が乗った「お召し列車」だったことが高知さんさんテレビの取材で判明した。
昭和天皇は戦後、復興状況を視察するために全国各地を回り、1950年3月に高知入りした際には四万十町・影野駅から高知駅までをお召し列車で移動した。
当時の記録映像には、高知市の奉迎場を訪れた昭和天皇を市民4万人が盛大に歓迎している様子が捉えられている。
「初めての仕事、こんな重量物は」
お召し列車の大役を担ったSLが引退した後、交通公園に運んだ人がいる。
高知市の大石敬雅さん(80)と、いの町の西森勝也さん(80)。自らが運んだSLを前にした2人は「54年ぶり」「懐かしい」と感慨深そうに眺めていた。
2人は1962年(昭和37年)、高知市の運送会社「高知通運」に入社。重量物の輸送を担当していた26歳のときに任されたのが、重さ72トン、全長18メートルもあるSLを高知駅から1.5㎞先の交通公園まで運ぶという大仕事だった。
大石さんは「初めての仕事、こんな重量物は。当時、機関車を積み込んだのがクローラークレーン。これ2台でつり上げた。機関車の前と後ろ、相づりで」と振り返る。
ギリギリつり上げるも大きな関門が…
作業は1970年2月14日の午前2時過ぎに開始し、2台の大型クレーンで高知駅に置かれたSLをつり上げることから始まった。
当時、クレーン1基でつれる限界重量は30トンとされていて、72トンのSLはクレーン2台でもつり上がるかどうかギリギリだったという。
そういった状況で浮いたSLの様子について、大石さんは「壮大だった」と笑った。
その後、つり上げたSLを大型トレーラーに積み込み、午前4時に高知駅を出発したが、すぐに「歩道橋」という大きな関門が待ち構えていた。
大石さんは「歩道橋を抜けるかどうかが問題やった。ギリギリ15~20㎝空くか、空かんかで歩道橋を抜けた。抜けるときはドキドキした」と話す。
思わぬトラブル乗り越え作戦成功
先導する県警のパトカーに続き、時速1kmで北上して比島町へ。しかし、交通公園を目前にした信号機のある交差点で思わぬトラブルに見舞われた。
トレーラーが信号機をよけて通ることができなかったのだ。県警の先導車に許可を得て信号をずらすことで、回避したという。
そして、高知駅出発から1時間半後の午前5時30分、無事に交通公園に到着。真夜中のSL輸送大作戦は、見事成功した。
大石さんは「それまでうちの会社で運んだ重たいものは20~30トン。SLは70トン。今考えてみたら、よくこんなもん運んだと思う」と振り返る。
当時、2人はこのSLがお召し列車だったことは知らなかったといい、「感慨深い。全然知らなかった。天皇が乗った列車を引っ張ったとは」「どこかの機関区で廃車になった列車を、ここに持ってきて据えたぐらいに思っていた」と驚いていた。
開園55周年を機にSLを観光資源へ
大石さんとSLには特別な縁があった。共に1943年(昭和18年)生まれの80歳なのだ。
同い年のSLに対し、大石さんは「保存を大事にしてもらいたい。何年かに1回塗り替えて。そういう気持ちでいっぱい」と語った。
忘れ去られたお召し列車の歴史を知った80歳の夏。当時成し遂げた仕事への誇りと愛着が、胸に込みあげる。
交通公園は2025年に開園55年を迎える。公園はこれを機に県に働きかけ、お色直しなどのイベントを企画し、観光資源としてアピールしていきたいと意気込んでいる。
(高知さんさんテレビ)