戦後まもなく大崎市鹿島台に移り住んだ男性が、埋もれゆく戦争の記憶を留めようと地域の人々と取り組んでいる。
男性はかつて海軍の軍属だった。

宮城・大崎市鹿島台に住む佐藤守良さん、92歳。
佐藤さんは以前、地元・鹿島台の戦争体験を語り継ぐ会の会長だった。
しかし、会員たちの高齢化により会の活動は休止。現在は歴史研究会に所属している。

メンバーの多くを60代から70代が占める中、戦時中の暮らしを知る佐藤さんの存在は、まるで生き字引のようだという。

鹿島台歴史研究会・川越壽美子会長:
貴重な方ですよ。なんでも知っていらっしゃるし、日付から人の名前からピッと的確に覚えていらっしゃって、すごいです。ほんとに記憶力すごいです

"元海軍で働いた少年”の記憶

昭和3年(1928年)、現在の東京・新宿区で生まれた佐藤さん。
旧制中学を出て間もない16歳の時、空襲で自宅を失った。
幸い家族は皆、無事だった。

ーー当時の仕事は?

大崎市鹿島台・佐藤守良さん(92):
その時は学校を卒業してね、まだ職に就かなかったですね。それから私は海軍省の特兵部という、潜水艦部と特攻部が合併したところへ、理事生(軍属の一種)として入ったんです

ーー主にどんな仕事を?

大崎市鹿島台・佐藤守良さん(92):
いわゆる特攻兵器ですね。海軍ですから、回天とか、蛟龍、海龍、震洋とか、そういう特攻兵器の事務的なことをやっていたんです

やがて日本は戦いに敗れ、太平洋戦争は終結。
ある日、佐藤さんは上官から大量の書類を燃やすよう命じられる。
重要な機密が占領軍に渡らぬよう、処分せよとの命令だった。

大崎市鹿島台・佐藤守良さん(92):
あとは絶対これ(無言)だから、しゃべっちゃいけないからね。下手に何かしゃべると、にらまれるからね。黙って仕事していたんですよ。今じゃ考えられない

ーーそれほど厳しかった?

大崎市鹿島台・佐藤守良さん(92):
厳しいですよ、海軍はね

程なく、軍は解体となり、佐藤さんは東京を離れ、親兄弟と共に実家のある鹿島台へ。
当時、列車から見た光景を、今も鮮明に覚えているという。

大崎市鹿島台・佐藤守良さん(92):
田んぼがね、黄金色になってね、これはとてもきれいに見えましたね。東京は何しろ焼け野原ですからね。赤茶けたトタンばかり見ていましたから、鹿島台に降り立って眺めたときは、別な世界に来たような感じでしたね

旧満州開拓団の歴史を語り継ぐ

佐藤さんが地元の人たちと長年取り組んでいるのが、戦時中、旧満州に渡った開拓団の歴史を語り継ぐこと。

当時、鹿島台村では総勢271人の開拓団が旧満州に渡り、その約7割にあたる184人が帰らぬ人となった。

佐藤さんは、帰国した元開拓団員から話を聞き、後世に伝えるべく、仲間たちと本にまとめた。

年々、焦りを覚えながら、今も旧満州からの引揚者のもとへ足を運んでいる。

大崎市鹿島台・佐藤守良さん(92):
満州から無事に帰ってこれたのは、みさ子さんと、妹さんと、あと誰? 2人だけ帰ってきたの? あとみんな亡くなったの?

75年前、軍の機密を燃やせと命じられ、今、その反動のように埋もれゆく戦争の記憶を留めようとする佐藤さん。
それは、佐藤さんが鹿島台で歩んだ日々が、平和で充実していたことの裏付けかも知れない。

大崎市鹿島台・佐藤守良さん(92):
少しおおげさに言えば使命感というかね、自分たちもあの世も近いんだし、やっぱり戦争というものは多くの人々を不幸にするということを、語り伝えなきゃならないという気持ちはありますよね

(仙台放送)