東日本大震災で被災した宮城県南三陸町では、全国の商店街の支援をもとに震災から1カ月半後、市を立ち上げた。市は新たな商店街の誕生につながり、今、能登半島地震の被災地の支援へ動き始めている。

「福興市」の名前の由来

南三陸町は東日本大震災の津波で620人が死亡し、今も211人の行方が分かっていない。6割の建物が全壊し、多くの人が住むところだけでなく、なりわいを失った。

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震災から1カ月半後、避難所となっていた中学校の校庭にテントが並んだ。

福興市
福興市

「たっこん飯うまいよ~、たっこん飯」

鹿児島県や岡山県などの商店街から寄せられた郷土料理や生活用品が、町民やボランティアによって販売された。

福興市を訪れた町民は「避難所から初めて、きょう出てきたんです」「1日生き延びました。落ち込んでいたのがかっとなって」と話した。

町にがれきが残る中での商いの再開。中心となったのが、地元で水産加工場や鮮魚店を営んでいた山内正文さん(74)。

「『市』を興してみんなで幸せになると、こういう壮大な意味を込めて、『福興市』という名前を付けました」
(山内正文さん 復興市実行委員長・当時)

沿岸部にあった山内さんの店や工場も津波で流された。廃業する店もある中、山内さんたちの背中を押したのは、全国の商店街とのつながりだったという。

「当時はみんな迷いながらやっていたのさ。不安だったからね。どうしようもなかったからね。ただ全国のみんながあんなに応援してくれると思わなかったのよ」
(山内正文さん 復興市実行委員長・当時)

全国に復興を伝える

福興市は月1回のペースで続き、商店のつながりは翌年、仮設商店街へと受け継がれた。現在は「南三陸さんさん商店街」として、商いを通じ、全国に震災からの復興を伝えている。

南三陸さんさん商店街
南三陸さんさん商店街

震災から13年。再建を果たした町で、山内さんたちは能登半島地震で被災した商店街に恩返しをしようと動き始めた。

「トントン拍子にいったのかな。それは全国の商店街の仲間のおかげ。能登の人たちに少しでも恩返しができればなと思って、みんな動いてっからね」
(山内正文さん 復興市実行委員長・当時)

能登の復興 商人の力が必要

2024年1月1日、石川県で最大震度7の揺れを観測した能登半島地震。2月、石川県七尾市の商店街で「一本杉復興マルシェ」が開かれた。能登半島地震後、40店あまりが加盟する商店街はほとんどの店が休業を強いられた。

倒壊した家屋が残る中、駐車場にテントを張って開催。和菓子店や眼鏡店など11店が参加した。店先には山内さんたちが無償で提供した南三陸町の特産品も並んだ。

「南三陸の方々は簡単なところから、自分たちができるとこから始めてみたらどうかと、商人なんだから、テーブルに商品を並べて、お客さんが来てくれるので、その中から商店街の復興を考えていったらいいんじゃないかという話をいただきました。本当に気が楽になって、僕たちができる中からスタートしてみようという気持ちになりました」
(一本杉通り振興会 高澤久会長)

被害を受けた店の解体すらままならない、能登半島の被災地。山内さんは東日本大震災の経験から、復興には商人が率先して動くことが必要と考えている。

「やっぱり商人だからさ、そこに住んでいる人たちを守らなければいけない。住民も商人とは意外と話しやすいからさ、商人たちが中心になって動けば、必ず町が復興するから、私の経験から言ってね」
(山内正文さん 復興市実行委員長・当時)

商人の誇りを胸に、山内さんはこれからも恩返しを続けるつもりでいる。

「やり続けることが大切だからって、何回もみんなに言ったから、そのためにみんなで応援するよと。困ったことはみんな散らかせばいいんだ。困っているから誰か助ける人がいないかなと言えばさ、みんな助けるから大丈夫だ!」
(山内正文さん 復興市実行委員長・当時)

(仙台放送)