大戦の記憶が風化する中、福井市の県護国神社で初となる戦没者の生誕100年祭が執り行われた。戦没者に思いをはせるのは8月が通例だが、11月に慰霊祭を開いた男性は「戦没者の事を考える機会を作ってほしい」と呼び掛ける。
当時22歳…海外で亡くなった叔父の慰霊
11月10日、福井市の県護国神社で戦没者の慰霊祭が執り行われた。開いたのは、戦没者の孫などでつくる敦賀市遺族次世代の会の奥野治樹会長(57)だ。
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この日は、戦死した叔父が生まれた日からちょうど100年の節目だった。見知らぬ海外の島で亡くなった、当時22歳の叔父の霊を慰めた。
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奥野さんの叔父・弥多加さんは、1923年(大正12年)11月10日生まれ。20歳の時に陸軍に召集され、敗戦が色濃くなった1944年に激戦地、フィリピンのルソン島に送られた。
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戦況が悪化しても本国から武器や食料の供給はなく、日本兵は島に置き去りに。大半が戦闘ではなく、飢餓や病気で命を落とした。日本が敗戦を認めた翌日の8月16日、弥多加さんもルソン島で病死した。
奥野治樹会長:
自分が恵まれた社会の中で生活しているだけに、叔父のことを考えると大変だっただろうなと感じる。環境は劣悪だっただろうなと思うし、若くして亡くなったから無念なこともたくさんあっただろうなと
「戦没者の存在を忘れてはいけない」
敦賀市の遺族会は毎年8月、戦没者法要を営んでいる。叔父の生誕100年という節目で慰霊祭を執り行った背景には、戦争の悲惨さを忘れてはならないという強い思いが込められていた。
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奥野治樹会長:
途絶えてまうんですよね、戦没者の存在そのものが。それが一番申し訳ないことだと思う。忘れてはいけないと思い、100年祭を催行しました
福井市の県護国神社では、戦没者の生誕100年を節目にした慰霊祭を行ったのはこれが初めてとなった。
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県護国神社・宮川貴文宮司:
初めて催行いたしました。戦争を忘れたときに新たな災いが起こると思う。先人に感謝して祈りをささげることが平和への第一歩だと思う
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「生誕100年祭はあくまでもきっかけ」と奥野会長は話す。日本が敗戦を認めた8月15日前後だけでなく、戦没者の誕生日や亡くなった日などに注目して、機会を見つけては慰霊祭を開いてほしいと呼び掛ける。
奥野治樹会長:
戦死した人の資料を見てもらって、該当すれば生誕100年祭などを催行してほしい。一番大事なのは人の命。慰霊祭などを開いて、命の大切さを伝えて考えるきかっけにしてほしい
(福井テレビ)