第二次世界大戦が終わって、70年あまり。広島と長崎に投下された原爆。東京や福岡での大規模な空襲。そして、敗戦後の大陸からの引き揚げ――。それぞれの日本人が異なる場所で体験した「忘れ得ぬ記憶」は、戦争体験者の心の奥底に今もこびりつき、いびつなわだちとなって固まっている。
アメリカ兵捕虜の生体解剖に関わった医師、極秘の堕胎施設で働いていた看護師、中国大陸で使用する毒ガスを砲弾に詰めていた男性、アメリカまで飛ばす風船爆弾を作っていた女生徒……。彼、彼女たちは、確かな罪の手触りを感じながら人生を歩んできた。
その証言にある“消えない真実”から見えてくるのは、日本における「被害の歴史」、そして「加害の歴史」だ。
前編では、広島県にあった毒ガス工場、福岡県にあった堕胎施設をめぐる“消された記録”を追う。
広島県の大久野島に残る、戦争での“加害”の歴史
この記事の画像(16枚)瀬戸内海に浮かぶ、広島県の大久野島。この島を訪れる観光客は、年間36万人。島には、外国人の姿も目立つ。観光客の目当ては、およそ700羽ものウサギだ。
この島にはかつて、日本軍が作った極秘の軍事施設があった。1929年、日本軍はこの島の住民を強制的に排除し、毒ガス工場「陸軍忠海兵器製造所」を作った。
兵器としての毒ガスの使用は、1925年に締結した国際条約「ジュネーブ議定書」で禁止されていた。しかしここでは、6600トンもの毒ガスが、密かに作られたのだ。
製造に関わった労働者は5000人。戦後、ほとんどの労働者が、皮膚や呼吸器の異常に苦しんだ。
島の歴史を研究している山内正之さんもまた、被害者を親族に持つ人物だ。大久野島で働いていた義理の父は、慢性気管支炎で喉をやられ、何度も入院を余儀なくされたという。
ウサギは、毒ガスの殺傷能力を確かめる実験動物として島に持ち込まれた。約200匹のウサギが檻に入れて飼われていた。
「ウサギの肌は人間の肌と似ているから、毛を剃って、毒を塗りつけて、ウサギの肌がどのように染まっていくのかを見て、死んでいく様子を観察していたと聞いています」(山内さん)
大久野島は、軍の機密保持のために地図からも姿を消した。1931年に発行された地図では島の位置がはっきりと示されていたが、その後、中国での戦闘が激しさを増すと、島の存在自体が隠されたのだ。
毒ガスは、北九州小倉市にある軍の兵器工場に送られた。そこでは毒ガスを防弾に詰める作業が行われていたという。
小倉の兵器工場で3年間働いたという植野茂美さんは、当時のことを「毒ガスが出たらラッパが鳴るから、風上に逃げろと言われていたんですよ」と振り返る。それでも、何度も毒ガスを吸い込んだ。
植野さんは今も月に1度、定期健診を受けている。同様の患者を診ている担当医師は、「冬場になると、風邪をこじらして気管支炎が長引くんです。肺がんにかかる確率は、4~5倍と言われています」と説明した。
植野さんの体には、確かに戦争の被害が刻まれているのだ。診察室から出てきた植野さんは、ぼそりと「まだ戦争は終わらないみたいだな」とつぶやいた。
小倉で完成した毒ガス兵器は、主に中国大陸で使われた。中国では、戦後も日本軍が捨てた毒ガス弾によって多くの死傷者が出た。
「日本は、アジアへの侵略戦争で毒ガスを使ってたくさんの被害者を出したことを改めて知ることになりました。戦争被害のあった土地として知られている自分の育った地元にも、加害の歴史があると改めて知ったんです」(山内さん)
極秘で行われていた引き揚げ女性の中絶手術
戦争では、軍人だけでなく女性と子どもも大きな痛みと苦しみを背負わされた。
1931年の満州事変以降、日本はアジアの国や地域を統治下におき、勢力を拡大。民間人も、農地を拡大する開拓団となって満州などに移住した。
そして、敗戦。海外に取り残された日本人の数は、軍人、民間人を合わせると660万人だったという。彼ら、彼女たちは皆、逃げるように祖国を目指した。
しかし終戦の直前。ソ連が占領した旧満州や朝鮮北部からの引き揚げは、他の地域と比べて大幅に遅れた。
国内最大級の引き上げ援護港だった博多港には、139万人もの日本人が帰ってきた。
福岡県筑紫野市にある高齢者施設の駐車場。ここはかつて、国が極秘で作った堕胎施設「二日市保養所」があった場所だ。日本に引き揚げる途中、外国人の兵士などに強姦されて妊娠した約700人の女性が、ここで中絶の手術を受けた。
2015年に亡くなった村石雅子さんは、看護師として二日市保養所で働いた女性だ。当時、18歳。最期まで、手術室での女性たちの姿を忘れることはなかった。
「あの頃、痛み止めとか注射がなかったんですね。でも手術中、誰も『痛い』と言わなかった。ただ、呻き声をあげているだけなんです。ちぎれるぐらい、唇をかみしめて……」(村石さん)
海外で終戦を迎えた人たちにとって、祖国にたどり着くまでの道のりは苦難の連続だった。
当時、朝鮮で暮らしていた女性は、現地では日本人女性の暴行や略奪が繰り返されていたと明かす。「朝鮮の人が、ここには娘がいるとロシア兵に教えて。そうしたら、ロシア兵たちがトラックで来るんですよ」。
ある日の夜、この女性の自宅にもソ連兵が入ってきた。
「家に入ってきて、ガサガサと探すんです。その音が聞こえるんですよ。その時は本当に生きた心地がしませんでした。私たちはただもひたすらうつ伏せになって、ロシア兵が帰っていくのをじっと待っていました」
この女性は、間一髪のところで難を逃れた。しかし、「わざと汚い格好をしていたりしても、辱めを受けて妊娠している女性がたくさんいらしたんです」。
引き上げの歴史を研究する釜山日本文化研究所の高杉志緖さんは、隠された歴史の背景を語る。
「戦後混乱期の時代は、戦前の法律がそのまま適用されていました。今で言う『中絶』をすることは、申告した者も治療した者も堕胎罪に当たってしまったのです」
さらに被害者本人を責める空気もあったという。日本には、「恥の文化」があった。自らの良心が痛むかどうかを価値基準とする「罪の文化」と違い、「恥の文化」で基準となるのは世間体や外聞といった他者の視線だ。
罪の文化のうえでは、罪に問われるのは暴行した側だろう。しかし、恥の文化にあっては、辱めを受けた女性が『恥ずべきもの』として扱われた。
「そのため、彼女たちは『レイプをされた』ではなく『陵辱された』と表現され、何もしていないのに『恥』だと責められてしまったのです」(高杉さん)
生まれてはいけない子どもたち、その母親たち
日本に引き上げる船の中で、女性だけに配られていた文書がある。
そこには、こう書かれている。
「暴力と脅迫により身を傷つけられたり、またはそのため身体に異常を感じつつある方は、博多の近く二日市の武蔵温泉に設備した診療所へ収容し、健全なる身体として故郷にご送還誤するようにしていますから、臆せず恐れずご心配なく直ちに船医の元までお申し出ください」
人工中絶が法律で認められたのは、終戦の3年後になってからのこと。国は、二日市保養所での堕胎手術を極秘で行わせていた。医師や看護師は、秘密を漏らさぬよう口止めされていた。
18歳で看護婦として勤務していた村石さんに、医師はつらい処置を命じた。
「長い産みの苦しみを経て、赤ちゃんがオギャッと声を上げて出てきたら、母体はホッと安心して、お乳も張ってくる。でも『それを彼女たちに味わわせるのは酷じゃないの』って言われて」(村石さん)
生まれる子どもは、「生んではいけない子ども」だった。だから医師は、「母親の気持ちを芽生えさせてはならない」と話したのだ。村石さんはその意味を理解し、命令に従った。
「『声を聞かせないんだよ』って言われていたから、私が立ち会った時、とっさに首を絞めたんです。赤い髪の大きなよく太った女の子でした。それから改めてメスを刺し直して、首を絞めたんです……」(村石さん)
「仕方がなかったですよね。『お母さんのためだからね、ごめんね』って心で言っていました。あの子たちには罪がないんですよね。お母さんにだって罪がない」(村石さん)
胎児の遺体は、二日市保養所の木の根元に埋められた。
その後、村石さんは結婚し、3人の子どもに恵まれた。しかし、保養所のことは家族にも話さなかった。固く閉ざしていた口を開いたのは 戦後60年以上が経ってからのこと。
「戦争というのは、女と子どもが一番被害を受けるんだよね。そして、戦争を起こすのは男だと思っている」
60年以上経っても、心の隅にはわだかまりが残っている。しかし、それが仕方のないことだったという思いもある。
「「仕方なかったよね」って、みんな言わないんです。でも、私だけは言う。『戦争はこんなに辛いんだ』ってことを言わないと、伝わらないからね」(村石さん)
村石さんは、2015年に亡くなった。
二日市保養所のあった高齢者施設の駐車場では、毎年、慰霊祭が行われている。小さなお堂に収められているのは、胸元に赤ちゃんを抱く水子地蔵だ。
手術に関わった医師や看護師は次々とこの世を去り、当事者の参加はゼロとなった。一方で、歴史を知り、参列してくる人たちもいる。
「戦争で亡くなった方は英霊という形でお祀りしてもらえるけれど、亡くなった女性や子どもはそういった機会が与えられていない。弱い立場ですよね。女性や子どもたちの思いは、弔われずにずっと続いているような気がするんです」(ある参列者の女性)
別の女性は、亡くなった女性たち、子どもたちのことを思い、いてもたってもいられずに参列しにきたのだという。
「もともとは生まれてくる生命だったのにと思うと、申し訳ない気持ちしかないです。女性たちは、自分が望んでいない妊娠にもかかわらず、つらい思いをしたはず。どんな扱いをされ、どんな風に言われたか、想像がつきますよね。」
誰にも知られず奪われた命があれば、やむをえず命を奪ってしまった人がいる。戦争が残した傷跡は、人々の心身に深く刻まれ、いつまでも癒えずに残り続ける。
後編では、アメリカまで飛ばすための風船爆弾を作っていた工場、そして大分県に墜落したB29のアメリカ兵捕虜をめぐる歴史を追う。