宮城県名取市の閖上ヨットハーバーで、震災後初となるヨットの全国大会が開かれた。震災から約12年半、国内最高峰のレースが開催されるまでに復興した閖上。一方、この閖上を拠点に活動する東北大学ヨット部の「ある教訓」がセーラーの間で注目されている。その内容とは、「あの日」犠牲者を一人も出さずに避難した学生の記憶だった。

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160人以上のセーラーが閖上に集結

全国から集まったトップセーラーたち
全国から集まったトップセーラーたち

9月7日から4日間にわたって行われた、「全日本470級ヨット選手権大会」。閖上を舞台にトップレベルのレースが繰り広げられた。1976年のモントリオールオリンピックで正式種目となったセーリング470級。パリオリンピックでは男女混合種目になることで注目されている。

閖上ヨットハーバーで開かれた全日本470級選手権 東北での開催は初
閖上ヨットハーバーで開かれた全日本470級選手権 東北での開催は初

同大会が閖上で開かれるのは初めて。震災からの復興と東北の活性化を目的として、閖上が会場に選ばれた。大会には、82艇160人を超える選手が参加し、大きなにぎわいを見せた。

一方、震災直後の様子を知っている人ならばだれもが、これほどまでに復興するとは思わなかったのではないだろうか。

「あの日」海にいた東北大ヨット部

東日本大震災で甚大な被害を受けた閖上地区
東日本大震災で甚大な被害を受けた閖上地区

東日本大震災の津波で壊滅的な被害を受けた閖上。津波の高さは閖上漁港で8メートル以上に達したといわれている。多くの船が流され、ヨットなどを格納する艇庫は骨組みだけを残し大破するなど、甚大な被害を受けた。レースができる環境が整うまで、7年もの歳月を要した。

津波が閖上を襲った「あの日」。ハーバーを拠点に活動する東北大学ヨット部などは、ヨットの練習中。普段であれば、ハーバーを出て洋上に展開して練習するが、この日は午後から強風注意報が発令され、ハーバーの湾内で練習をしていたという。そして、午後2時46分。地震が発生した。

以下は、当時の東北大学ヨット部の震災直後様子の報告だ。冊子にまとめられている。

・低く大きな音がし始めた。レスキュー艇の乗員はエンジントラブルかと錯覚した。
・ハーバー建物等の揺れや音から地震であることをすぐに認識。その後海面に細かい波がたち、岸壁から反射するうねりにより非常に強い地震であることを認識
・食事の準備や後片付けをしていた部員もラジオからの地震発生に伴う津波来襲の放送を聞き、急いでハーバー内に駆け付け、練習をしていた部員等に緊急事態の発生と避難を伝えた。
・救助艇は、桟橋に係留する程度で放置
ヨットは放置したままで直ちに避難行動へ移行
着替えをせず、ライフジャケットなどを装着したまま、車へ分乗開始

地震発生が午後2時46分。実際に学生たちが車に乗り込んだのは、午後2時55分とされている。わずか10分の迅速な行動。かさばるライフジャケットを脱ぐこともなく、まさに「着の身着のまま」での避難だった。

迅速な避難できたワケ

学生たちは、なぜこれほどまでの対応をとることができたのだろうか。当時、練習に参加していた、東北大学ヨット部卒業生の井口詩乃さんは「普段からの備え」があったと、当時を振り返る。

東北大学ヨット部卒業生 井口詩乃さん 震災当日 海の上でヨットの練習中だった
東北大学ヨット部卒業生 井口詩乃さん 震災当日 海の上でヨットの練習中だった

2006年にヨット部で、あと一歩で危なかった事故があった。その後、出艇や練習をする基準や、練習をする際の装備といった安全マニュアルを自分たちで作って、運営してきました。
(東北大学ヨット部卒業生 井口詩乃さん)

東北大ヨット部の安全マニュアルとは、出艇禁止基準などを風速や気温、様々な気象条件によって定めたもの。風速15メートル以上、気温0度以下といった悪条件の中では、出艇はできないなどとされている。

また、「沖に出ず練習する」「練習艇数を減らす」といった、より安全に練習するための条件なども決められている。井口さんが話す「あと一歩で危なかった事故」をきっかけに、当時の部員たちが中心となって作ったものだという。

東北大学ヨット部安全マニュアルの一部
東北大学ヨット部安全マニュアルの一部

井口さんが話す、東北大ヨット部の「あと一歩で危なかった事故」とは、2006年3月、閖上沖で練習中だったヨット7艇のうち、3艇が風にあおられて転覆したというものだ。ヨットに乗っていた学生6人が海に投げ出されたが、練習を見守っていたエンジン付きのレスキュー艇が救助に当たり、事なきを得た。当時、海上では、風速15メートル以上の風が吹いていた。

2006年閖上沖で転覆した東北大のヨット 3艇が風にあおられ乗員6人が海に投げ出された
2006年閖上沖で転覆した東北大のヨット 3艇が風にあおられ乗員6人が海に投げ出された

そもそも、小型のヨットが転覆することは珍しくない。帆に強い風を受けた場合や、乗艇位置を誤り、バランスを崩しただけで転覆することもある。一方で、3艇が同時に転覆、乗員が海に投げ出されるというケースは、そうそうあるものではない。そんな危険と隣り合わせの経験からマニュアルは作成され、学生たち自ら運営してきた経緯があったのだ。

自ら考え、行動した学生たち

そんな中、学生たちの気を引き締める出来事が、震災2日前にあったと井口さんは話す。
その「出来事」とは2011年3月9日に発生した三陸沖を震源とするM7.3の地震だ。
宮城県内でも震度5弱を観測。この地震で、青森県太平洋沿岸、岩手・宮城・福島の3県沿岸に「津波注意報」が発令された。

あれだけ大きい地震があると津波があってもおかしくないよねと。閖上は、高台とか逃げられる場所もほとんどなかったので、津波が来たら、その時にどうやって逃げるかというのを皆で考えておこうかと、避難経路についみんなで考えました。海にできるだけ直角でまっすぐ逃げられる道を…。今はない道路ですが、この道路をみんなで行こうと。
(東北大学ヨット部卒業生 井口詩乃さん)

井口さんたちは、津波が遡る可能性がある川沿いを避けて内陸側に逃げることや、部員同士の連絡網を再確認した。

井口さんら当時の部員が話し合って決めた避難ルート
井口さんら当時の部員が話し合って決めた避難ルート

そして、そのわずか2日後、東日本大震災の発端となる東北地方太平洋沖地震が発生。練習中だった井口さんたちは、陸に残っていた部員からの連絡で津波が来ることを知った。

この日は強風注意報が出されていたため、前述のマニュアルの基準に従って「湾内で艇数を絞って」練習していた東北大ヨット部。2日前の地震の余震が続いていたこともあり、一部の部員を陸に残していたという。これが功を奏し、避難開始までに時間はかからず、あらかじめ話し合ったルートで避難を開始することができた。

湾内はハーバーに近く すぐさま着艇が可能だ
湾内はハーバーに近く すぐさま着艇が可能だ

井口さんは、自身が乗ってきた原付バイクで避難。避難のかたわらで近くを流れる名取川を見ると、普段見たことのない色の水が川をさかのぼっていた。雪が降る中、不安な思いを抱え仙台までバイクを走らせた。津波が閖上に到達したのは1時間6分後。練習に参加していた部員22人全員が無事に避難することができたという。

受け継がれる経験

井口さんたちの当時の経験は、安全マニュアルに追加された。これまでの内容に加え、災害発生時の対応として、津波注意報発令時には、練習艇をえい航して寄港。警報発令時には、ヨットを洋上でアンカリングしてレスキュー艇に人員を載せて寄港。大津波警報発令時には、ヨットをその場で放棄して速やかに避難。といった具合に、パターンごとに細かくルールが設けられた。

この「津波からの避難」という経験は、世界的に見ても類を見ない事例。教訓として広めようと、東北セーリング連盟が冊子にまとめ、その後、多くのセーラーの目に触れることになった。

ハーバーから避難場所へのルートを年2回は確認しているという東北大ヨット部 「教訓」は受け継がれている
ハーバーから避難場所へのルートを年2回は確認しているという東北大ヨット部 「教訓」は受け継がれている

私たちはセーリングが好きで続けていて、競技ができなくなることが嫌だった。楽しいヨット、楽しいセーリングができるよう、私たちの経験したことが役に立てば…。「きちんと準備したから津波からも逃げることができた」ということを含め、伝えていければと思います。
(東北大学ヨット部卒業生 井口詩乃さん)

震災から12年の時を経て全日本大会という新たな記憶も刻まれた閖上。帆を上げ、風を受け、確実に進み始めた東北屈指のヨットハーバーとともに、ヨットを愛する学生たちの「あの日」の教訓は、世界中の人たちに受け継がれていく。

(仙台放送)

仙台放送
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