終戦から76年。当時、多くの命が失われた延岡大空襲で、焼夷弾の爆撃から生き延びた当時20歳の生存者が、空襲の恐ろしさを語った。

焼夷弾攻撃で約3800戸が被災 家族で橋の下に逃げ込む

今から80年以上前の宮崎県延岡市街地。

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ベンベルグ工場の煙突や建設中だった安賀多橋、平穏な市民生活の様子が撮影されている。

この頃、防空訓練も行われ、すでに戦争の暗い影が…。その後、延岡市は太平洋戦争で空襲を受け、焼け野原となった。

延岡大空襲の生存者・日髙敏子さん:
夢も希望もなくなりますから。戦争はあってはいけない

宮崎県日向市に住む日髙敏子さんは、現在96歳。終戦間際の1945年6月29日、20歳で延岡大空襲を経験した。

軍用火薬の工場などが立ち並び、当時から工業地帯として発展していた延岡市。

上空を覆った爆撃機、B29による焼夷弾の攻撃で市街地は一瞬にして火の海となり、約3800戸が被災。一連の空襲で300人を超える市民が犠牲となった。

延岡大空襲の生存者・日髙敏子さん:
1つ落とすと、30くらいに焼夷弾が分かれる。隣に落ちたり、消しに行ったりしていたら、次々と落ちるから大変だと、父が心配して

日髙さんは、両親と弟2人の家族5人で自宅から大瀬川に架かる安賀多橋の下に逃げ込み、全員無事だった。

現在の安賀多橋
現在の安賀多橋

延岡大空襲の生存者・日髙敏子さん:
安賀多橋の下も、いっぱいの人でしたよ。油脂弾が落ちてくるんですよ。油が川にいっぱい、
火の玉みたいに浮かんでいる。それがくっついて、やけどした人も見ました。1軒1軒燃えるのではなく、火の玉がばっと広がっては燃え、火の玉が広がっては何軒も燃えて焼けた。あれは忘れられない

同僚の死と戦後の苦労

延岡大空襲では、日髙さんが勤めていた安賀多国民学校、現在の延岡中学校も被害に…。

病気療養中だったため日髙さんは無事だったが、日系二世でカナダから母方の実家がある延岡に帰り、教鞭を取っていた栗田彰子さんが消火活動中に命を落とした。25歳の若さだった。

延岡大空襲の生存者・日髙敏子さん:
栗田先生が(代わりに)私の組を担当してくださって。「あしたから行くからね」と言って別れて、それが最後でした。校長室に安置されていました。同僚が栗田さんの顔をきれいにお化粧して。涙が出るばっかり。かわいそうで…

延岡大空襲で命こそ助かったものの、着の身着のままの生活となった日髙さん。その後の苦労を振り返った。

延岡大空襲の生存者・日髙敏子さん:
(命が)助かって、飛び上がって喜ぶことはない。目の前の大変さのほうが大きかった。何もないからね…。戦後のほうが苦しいです、生活してくのが…みじめです

20歳の女性の夢や希望を奪い、多くの尊い命を奪った戦争。二度とあってはならないと願い続け、76回目の終戦の日を迎えた。

(テレビ宮崎)