鹿児島・姶良市に太平洋戦争で生死の境をさまよった98歳の男性がいる。一方で、戦争の記憶を語り継ごうとする戦後生まれの女性が鹿児島県内で活動している。異なる世代の2人がそれぞれに語る「戦争」。そして「今の世界」に思うことに迫った。
戦地からの手紙を展示
鹿児島・姶良市の重富民俗資料館に、古めかしい字体の手紙が展示されていた。
この記事の画像(16枚)今年はミカンは如何でしたか?お父さんは例年通り選果場?ミカンは送っていただかなくてけっこうです
陸軍兵士として出征した垂水市の男性が、戦地から家族に宛てた手紙だ。
「戦争といっても現実的に自分たちにリアリティーは感じられないと思う。しかし、この手紙は“本当に本物”なので、自分の意思とは関係なく戦争が行われていくということを感じていただければと思っています」と語るのは、垂水市の歴史研究グループとともに、手紙を現代文に清書した山下春美さん(55)だ。
ヘルパーとして山下さんが介護していた女性の戦争体験がきっかけで、9年前から戦争の記憶を語り継ぐ集会を開催している。手紙の展示もその活動の一環だ。
手紙の中には戦場の生々しさが伝わってくる文章もあった。
海岸にはまだ敵の屍体(原文ママ)が転がっていて臭気鼻をつきます
これについて山下さんは「戦場の様子があからさまというか、その状況を書けるというのは、慣れてしまうというのが人間にはあるんだなと思いました」と語った。
男性は、ソロモン諸島方面で戦死したとみられるが、日付や正確な場所は分かっていない。
戦争を語り継ぐ集い 世話人・山下春美さん:
戦争では数でしか人の命がカウントされない。もし私たちが「命は尊い」と思っているのなら、このような現実は起こらないと思っています
味方さえ敵に…悲惨な戦場の記憶
理不尽で尊厳も伴わない死が珍しくない、戦場。そこから辛くも生還を果たした男性がいる。
「戦争からは逃れられない。もう行くんだと思っていた」と語るのは、姶良市に住む坂上多計二さんだ。坂上さんは1925(大正14)年生まれ、2023年で98歳になる。
農業学校出身の坂上さんは、軍に所属する民間人としてフィリピンのミンダナオ島に派遣され、兵隊たちが食べる野菜を栽培していた。
坂上多計二さん:
大根やニンジンを栽培していた。あっち(フィリピン)は暑いからどんどんできるんですよ
島にアメリカ軍が上陸したのは、終戦3カ月前の1945(昭和20)年5月。この時20歳の坂上さんは、民間人で抵抗する術もなく、約30人の部下を率いてジャングルに逃げ込んだ。
食料を探す任務に就く部下に坂上さんは、こんな言葉をかけていたという。
坂上多計二さん:
食料探しは「一人で行くな、一人で行ったら殺されるぞ」と。味方に殺される。エサ(食料)を狙われる。地獄ですよ、もう本当に!
味方の日本人さえ敵になってしまう過酷な環境。そんな中迎えた1945(昭和20)年8月15日。戦争が終わった後も1カ月ほどジャングルに隠れていたという坂上さんは、その後捕虜となり、終戦の年の11月に日本に帰ってきた。「帰ってくる途中、中国地方の焼け野原はものすごかった」と、坂上さんは振り返る。
反戦と平和への思い変わらず
7月27日、鹿児島市のJR鹿児島駅に山下さんの姿があった。ここにある慰霊碑には1945年のこの日、空襲で犠牲になった12人の名前が刻まれている。
犠牲者を悼む山下さん、今の世界情勢についてこんなことを口にした。
戦争を語り継ぐ集い 世話人・山下春美さん:
もし私たちにもっと想像力があるなら、こんな悲しい現実は起こっていないはずです
終わらないロシアのウクライナ侵攻。相次ぐ北朝鮮のミサイル発射実験。戦後78年がたった2023年、世界では軍事的な緊張が高まり続けている。
そして、鹿児島県内にも国防の波が押し寄せようとしている。西之表市の馬毛島では基地整備が進み、鹿屋航空基地ではアメリカ軍の無人偵察機が運用されている。
戦争を知らない世代の山下さんが今、思うことを話してくれた。
戦争を語り継ぐ集い 世話人・山下春美さん:
戦時中の人が「知らない間に戦争が始まっていた」と言っているのと同じで、私はもう既に始まっていると思っています。抑止力というのであるなら、軍備を備えるよりも、悲惨だった事実に目を背けずに向き合うことなのかもしれない
そして、戦場を経験した坂上さんも強い口調でこう語った。
坂上多計二さん:
私は戦争は絶対に反対です。大事な身内を戦争に出して、死ぬような目に遭わせたいとは思わない。だから私は「正義の戦争はない」と申し上げる
戦後78年、安全保障を取り巻く環境は目まぐるしく変わっているが、戦争を知る世代も知らない世代も、反戦と平和への思いが変わることはない。
(鹿児島テレビ)