アフガニスタン支援に尽力した中村哲医師

福岡県出身の中村哲医師が、凶弾に斃れて半年。
戦乱の続くアフガニスタンから反戦を訴えてきた中村医師のルーツには、幼少を過ごした北九州市若松のある作家の存在があった。

アメリカとの紛争やイスラム過激派組織によるテロ行為、戦乱の続くアフガニスタンで、中村哲医師は長年にわたり難民救済に力を注いできた。

未曾有の干ばつが猛威をふるい、広大な大地が乾燥すると中村医師は白衣に代わって作業着を身にまとい、水の確保、用水路建設に力を入れた。

彼らは殺すために空を飛び我々は生きるために地面を掘る

 (ペシャワール会報より)

中村哲医師のルーツ「火野葦平」

北九州市の若松が誇る作家・火野葦平。
中村医師の伯父にあたる。

火野葦平資料館・坂口博館長:
あってはならない戦地で作家が受賞するというのはあってはならないと思いますけど、この芥川賞というのは最大の転機かもしれません。それをもらわなければその後の火野葦平というのはあり得なかったでしょう

1937年、葦平は日中戦争に出兵する。軍にその筆力を買われ「報道班員」に任命された。最前線に駆り出され、目の前に広がる惨状、兵士たちの苦悩、その中で見出す希望や喜びを細かく書き残した。

資料館に遺された葦平の従軍手帳が、それを物語っている。葦平の記録は、「麦と兵隊」を始めとする兵隊三部作として出版。民衆の心をつかみ、一躍、国民的作家に上り詰めた。

火野葦平資料館・坂口館長:
悲惨な戦地の状況をなんとか日本の内地に伝えたい、という思いでその象徴的なものがよく当時の検閲を通ったなと思うんですけど、戦地では皆、ダイナマイトを羊羹代わりに食べているという、ダイナマイトは甘いらしいんですね。いわゆる甘いものが不足してるものだから変わりに食べているという話をね

戦後になると状況は一変、葦平は戦争協力者として公職追放を受ける。

火野葦平の三男・玉井史太郎さん:
葦平を戦犯作家だとか兵隊作家というように代名詞で呼ばれるんですけど、私はそれは大きな誤解だと思ってですね

葦平の三男、玉井史太郎さん。
葦平が暮らした家、「河伯洞」の管理をしている。

史太郎さんは、葦平は作家として兵隊のありのままの姿を描いたに過ぎない、と静かに語る。

野葦平の三男・玉井史太郎さん:
自分が兵隊になったからその姿を描いたんだと、けして戦争に協力したり、軍部の旗振りをしたりするような文章ではなかったと私は今でも思っています

幼少を若松で過ごし、葦平とも顔を合わせていた中村医師。この河伯洞の廊下も走り回っていた。
その中村医師は葦平について次のように書き残している。

愛してやまぬ人の情の美しさを謳い、弱さや醜さの中にも、きらりと輝く美を発見しようとする
若松港を見下ろす高塔山の頂の文学碑に刻まれている一句は、やはり心にしみる

 (「天、共にあり」より)

泥に汚れし背嚢に さす一輪の菊の香や 異国の道をゆく兵の 眼にしむ空の青の色

火野葦平に似ている中村哲医師

同時多発テロ以降、アメリカの空爆と干ばつにあえぐアフガニスタンには、僅かばかりの水を求めて、慎ましく暮らす人々の姿があった。
そんな中、アメリカを追従して自衛隊を派遣し、アメリカ軍への給油支援を行う日本政府に中村医師はこう言い放つ。

中村哲医師:
自衛隊派遣は有害無益、飢餓状態の解消こそが最大の問題である。

中村哲医師:
どんなことがあっても武力はもちろん、絶対に制裁、報復に対して報復を加えるということは憎しみを倍加させるだけ

危険な戦地の惨状を国民に知らしめようとした火野葦平に、中村医師は自身を重ね合わせていたと史太郎さんは話す。

野葦平の三男・玉井史太郎さん:
危険も顧みずに現地に行って何か行動を起こすという点は「葦平と同じような仕事しよるな~」ってことで笑ってましたけどね

※一部画像 ペシャワール会提供
(テレビ西日本)