▼かつては多くの人が行き交った宜野湾集落

多くの人々の命や財産が失われた75年前の沖縄戦。
宜野湾では、住宅地や田畑のほとんどがアメリカ軍に奪われ、のどかな集落は普天間基地の中に消えた。
住民は、フェンスの向こう側にある、ふるさとが戻ってくる日を待ち望んでいる。

玉那覇昇さん(84):
(実家は)直線距離で100メートルくらいのところ。勝手に土地を取り上げて飛行場にして。惨めな思いです。75年たっても

宜野湾馬場 1910年頃(提供:東京大学理学部生物学科図書室)
宜野湾馬場 1910年頃(提供:東京大学理学部生物学科図書室)
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うっそうと茂る琉球松。国の天然記念物に指定されるほど美しい景観を誇った宜野湾街道。
通りには役場や郵便局もあり、多くの人が行き交った。

玉那覇昇さん:
露店市が開かれて、那覇・首里からも品物を買い出しに来て、馬車いっぱいに積んでいた。(当時の宜野湾村では)一番人が集まるところだった

「ガマ中で過ごすように…」沖縄戦で一変した生活

宜野湾集落で生まれ育った、玉那覇昇さん。
家族で肩を寄せ合い穏やかに暮らしていた玉那覇さんたちの生活は、沖縄戦が近づくと一変した。

玉那覇昇さん:
旧日本軍が宜野湾に来て、僕らは学校から追い出されて。空襲がだんだん激しくなってくると戦々恐々で、ガマの中で過ごすようになりました

当時、集落の中にはガマ(自然洞窟)がいくつもあったため、住民の多くは地元に残った。

玉那覇昇さん:
島尻(南部)に避難したほうが助かるということで、ガマを出て逃げた人たちが亡くなった。うちの叔父も「親族が全滅したら困る。1人だけでも助けたい」と(玉那覇さんを)連れ出そうとしたけど、母親が「死ぬならみんな一緒。(ガマを出たら)ダメだ」と

4月上旬、身を潜めていたガマにアメリカ兵が入ってきた時の出来事が、脳裏に焼き付いている。

玉那覇昇さん:
ブルブル震えながら縮こまっていた。隣にいた方々が布団をかぶって顔を隠していたため、撃たれて3人が亡くなった。2人の青年は、ガマの入り口に駆け上がって逃げようとしたと思いますね。それが見えたんですが、入り口で弾が発射されて、そこに転がり落ちてきて。怖くて親にしがみついていました

飛行場建設で自分の土地に帰ることができず…

ガマから出るよう求めるアメリカ兵に応じた住民たちは、収容所に移送され命をつなぎ留めた。
故郷の地に戻ることを許されたのは、終戦から2年後のこと。面影はなくなっていた。松の木はなぎ倒され、家屋はブルドーザーで押しつぶされていった。
本土決戦を見据えたアメリカ軍は、集落を接収し飛行場を建設。今の普天間基地となる。

当時の宜野湾集落は、そのほとんどが滑走路の下に消え、住民は自分の土地に帰ることができず、飛行場の周辺を取り囲むように暮らさざるを得なかった。

玉那覇昇さん:
全くのゼロからのスタート。土地の無い人もいるし、ほとんどの人は屋敷(自宅)がありません。戦争に勝った国が負けた国をぶんどって、住民も虐殺して、戦後の生活もままならない。ひしひしと惨めな思いをしました

アメリカ軍の行為は“国際条約違反” 基地の返還・移設問題の“源流”

戦争中に民間地を没収することを禁じている「ハーグ陸戦条約」。

住民が収容所に入っている間に、勝手に土地を取り上げたアメリカ軍の行為は、この国際条約に“違反”していて、今に続く、普天間基地の返還・移設問題の“源流”となる。

玉那覇昇さん:
米軍は勝手に土地を取り上げ、飛行場にして。移設の原点は“危険性の除去”と言うけど、何十年も危険性をほったらかしにして。沖縄に対する差別なのかな

「1日も早く返してほしい」失われし風景に募る思い

失われたふるさとの記憶を次の世代に伝えようと、字宜野湾郷友会は、当時の街並みをCGで表現。

玉那覇昇さん:
「いずれ帰れるのではないか」という希望は持っていた。軍用地料に頼って生活している地主は多いので、軍用地料がなくなることの不安も根強く残っています。しかし、将来の子や孫のことを考えたら、やはり基地はいらない。平和な宜野湾の街づくりをしてほしいという思いが強い。1日も早く返してほしい

かつてフェンスの向こう側にあったふるさと。
失われしのどかな風景に思いを募らせ、75年の歳月が流れた。

沖縄テレビでは6月23日の慰霊の日に執り行われる沖縄全戦没者追悼式の模様をインターネットでライブ配信します。FNNプライムオンラインのほか、沖縄テレビのホームページで視聴できます。

(沖縄テレビ)

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