『雇用・利子および貨幣の一般理論』で著名なイギリスの経済学者ケインズは、あるオークションでニュートンの手稿を競り落とし、その中身を見て愕然とした。その大半が錬金術に関するものだったのだ。近代科学の創始者のひとりであるニュートンは、また中世の遺風を残す「最後の錬金術師」でもあったのだ。

しかし、なぜケインズはニュートンの手稿に興味を持ったのだろうか。

ニュートンは初老のころに王立造幣局長官に任命され、意外にも贋金作りの対策に剛腕を発揮し、偽造通貨を激減させたという実績を持っている。それが経済学者のケインズの興味をそそったのかもしれない。あるいはケンブリッジの先輩であるこの数学者、物理学者に畏敬の情を抱いていたのだろうか。

イギリスの経済学者、ジョン・メイナード・ケインズ
イギリスの経済学者、ジョン・メイナード・ケインズ
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実は、ケインズはケンブリッジ大学時代、はじめに数学を専攻し、その後、経済学に移った人なのである。高等文官試験を2位で合格して官僚になり、その後母校のケンブリッジに戻って経済学を教え、さらにまた官僚に戻って、第一次世界大戦後のパリ講和会議で大蔵省首席代表として出席した。だが敗戦国ドイツに対する賠償金問題で、莫大な金額を請求することに強く反対。結局その意見は聞き入れられず、ケインズは大蔵省を去った。

ケインズは支払いきれないような賠償金はドイツ社会を不安定にし、深い恨みをドイツ国民に抱かせ、やがては凶悪な反動勢力を勃興させると主張したのである。そしてその予想はナチスドイツ政権の樹立で的中することになってしまう。経済学はある意味、未来を見通すことを求められる学問だが、それにしても見事な先見の明である。

約20年後の日本を考える

さて、今回案内する『2040年の日本』(幻冬舎)の著者である野口悠紀雄氏は、このケインズによく似た経歴の持ち主だ。

野口氏は元大蔵官僚。東大工学部で応用物理を学び、さらに大学院で半導体などの研究を続けていたが、独学で経済学を学び国家公務員上級職試験の経済職で2位合格を果たした。ケインズと同じく理系から文系に転向してきた人で、公務員試験2位合格まで同じである。

ただ、官僚として大蔵省に勤めていた期間はそれほど長くなく、出向の形でさまざまな大学で教鞭をとり、東京大学先端経済工学研究センター長を最後に、大蔵省を退官している。

この人が一躍有名になったのは『「超」整理法』、『「超」勉強法』といった「超」が頭に付く一連のベストセラーだ。半導体研究の傍ら経済学を独習して国家試験を2位で合格した経験が、こういったハウツーものに活かされているともいえる。

もちろん学術的な書籍も数多く、『1940年体制―さらば戦時経済』(東洋経済新報社)では、戦時体制の経済が戦後も生き残り、それが日本の高度経済成長に有効に働いたとする考えを示している。

たしかに戦時経済は統制色が強い。戦後の焼け野原から高度経済成長を達成するためには、乏しい資源を無駄なく使う規制色の強い経済計画が必要だった。しかし一定の経済成長を果たすと、そこから先に進むために1940年体制からの脱却、いいかえれば経済の自由化に軸足を移す構造改革が必要だとした。時代の潮流を見据えた、これもまた優れた先見の明であった。

さて1940年を起点とした経済史の考察の次は、今回の2040年の未来予想である。

著者は「10年後や20年後を考えると言うと、『明日のことさえ定かでないのに、そんなに遠い将来のことが分かるはずはない』と考える人がいるかもしれない」とした上で、「しかし、10年後、20年後という期間を考えれば、ランダムな変動は平均化され、長期的な趨勢だけが残る。その中には、かなり確実に予測できるものもある。その意味では、長期予測のほうが短期予測よりも確実な側面もある」としている。

第一章は各機関が発表している日本の今後の経済成長率を俎上にあげている。いずれの成長率を採用するかによって、10年後が大きく変わってくるのは当然のことである。概して政府系機関より民間のシンクタンクの成長率予想は低い。そして野口氏も高成長率には悲観的で、高成長率を前提にした政府の施策に強く警鐘を鳴らしている。

「日本の政策体系全体が、2%実質成長という虚構の土台の上に立っている。虚構は実現しないのだから、日本の政策は、将来に向かって維持することができないことになる。それは、未来に対する責任放棄以外の何ものでもない」

社会保障制度、テクノロジーの進歩は

さて、年金も含めた社会保障制度は2040年にはどうなっているかと言えば、かなりシビアである。経済成長ゼロを想定すると、社会保障費は4割増加する。そして今も続く寿命の延びによって介護人口が激増するので医療福祉分野の就業人口は1000万人に達し、巨大産業の出現となるという。

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一方、医療介護テクノロジーはこれらの負担を帳消しにすることができるのだろうか。野口氏はできると考えているようだ。というより、やる以外に日本に未来はない。

人間型介護ロボットはもう少し時間がかかりそうだが、一方で介護する側がマッスルスーツを着て負担を減らす「移乗支援の装着型パワーアシスト」は、いずれ介護される人が装着して自力で動けるようになる。さらにメタバース(インターネット上の仮想空間に作られた世界)にも大きな期待をかけている。これは介護のほかに遠隔治療が行えるので医療にも有効だ。

他に、カリフォルニア大学サンフランシスコ校のサイトや日本の科学技術白書を引用する形で、以下の実現可能性に言及している。

ガンの克服、バイオニック・アイによって視覚障がい者がなくなる、人工内蔵の開発(臓器移植の終焉)、ナノ・マシーン(10万分の1m規模の極小機械)の開発で外科手術なしの治療、さらに「ゲノム編集」によるアルツハイマーへの対処。

また自動運転とEVの章では生活の激変を予想している。

「レベル5」(完全自動運転)は近い将来に実現し、社会に大きな変化をもたらすが、すぐに想像できるように、職業ドライバーの失業問題がクローズアップされるだろう。著者はこれまで技術革新によって、タイピスト、電話交換手などが不要になったが、当時は一定の経済成長下にあったので、新しい職に就け、大きな摩擦はなかったが、近い将来は、成長率が低く、また職業ドライバーの労働市場での規模がけた違いの大きさであることから、「安全性が確保されたとしても、なおかつ『さまざまな規制によって実際には導入できない』という事態は、十分考えられる」としている。

またロボット・タクシーの出現とカーシェアリングによって自動車はまさに「下駄代り」になって、自動車保有台数は激減し、自動車産業の斜陽化が進む。

大まかに言ってあまり明るい未来とはいえないが、しかし傷を最小限にとどめる必要があることもちろんである。

著者は最後の章で、未来に向けた人材育成について述べている。そこで世界ランキングにおける日本の大学の立ち遅れを指摘し、とりわけコンピュータ・サイエンスの遅れが著しいとしている。

この分野で上位100校に入っているのはわずかに2校(東大と東工大)。韓国は5校、中国は6校だが、人口比で見れば韓国は日本の約6倍に達する。こういった格差を埋めていかなければ21世紀中葉の日本は、先進国にはかろうじてとどまっていても、それ以降は「元は先進国だった開発途上国」に転落しかねない。まさに今こそが大事であることがよくわかる一冊である。

【執筆:赤井三尋(作家)】

『2040年の日本』(野口悠紀雄 著・幻冬舎)

赤井三尋
赤井三尋

本名・網昭弘 早稲田大学政治経済学部卒業後、ニッポン放送に入社。2003年『翳りゆく夏』で第49回江戸川乱歩賞受賞。2006年フジテレビジョン報道局へ転籍。
【著書】
『翳りゆく夏』( 講談社文庫)
『どこかの街の片隅で』( 単行本・講談社 改題して『花曇り』講談社文庫)
『2022年の影』(単行本・扶桑社 改題して『バベルの末裔』講談社文庫))
『月と詐欺師』( 単行本・講談社 講談社文庫【上・下】)
『ジャズと落語とワン公と 天才!トドロキ教授の事件簿』(単行本・講談社 改題して『面影はこの胸に』講談社文庫)
【テレビドラマ】
翳りゆく夏(2015年1月18日 ~(全5回) WOWOW「連続ドラマW」主演:渡部篤郎)