東日本大震災から間もなく12年。福島県は地震と津波の被害に加えて、福島第一原発事故という人類史上例をみない被災を経験した。その福島で12年間葛藤しながらも震災と向き合ってきた二人の女性を取材した。
「逃げているとき怖いと感じました」
福島県双葉町にある東日本大震災・原子力災害伝承館で働く横山和佳奈さん。震災当時横山さんは浪江町立請戸小学校の6年生だった。請戸小学校は海からわずか3百メートル。横山さんたちは1キロ以上離れた大平山まで避難し津波の難を逃れた。しかしこの請戸地区は地震、津波でほとんどの建物が流出し、さらに原発事故によって住民は離れ、いまはほぼ無人の更地が広がっている。
この記事の画像(13枚)震災当日のことを横山さんはこう語る。
「あの日は授業が終わって帰りの会をしていたときに地震があって、いったん校庭に出ました。そして『津波が来る』と言われて、先生の引率で1.5キロ先の大平山まで避難しました。請戸小学校は津波があったら大平山に逃げる決まりになっていました。逃げているときのことははっきり覚えていないのですが、よくわからないけど怖いと感じました」
語り部が続くと辛い、しんどいと思う
横山さんは津波で祖父母を亡くした。震災の翌日横山さんは郡山市に避難し、仙台の大学に進学した後、故郷の隣町にある伝承館に就職した。
「仕事をどうしようかと考えたら、自分の中でやりたかったのは震災関連しかなくて。ちょうどその時に伝承館ができて、ここだったら震災を伝えられるんじゃないかなと思って決めました。また請戸の海と空が好きで、仕事帰りに立ち寄ることもあります」
伝承館では職員として働きながら、月に1,2回語り部をやっているという。
「語り部は自分の境遇を40分程度来館者に話します。ただ『自分はこういう経験をしたから、あなたにはそうなって欲しくない』と言うために、祖父母の死について考えなければいけないし、今まで自分が目を向けていなかったところをあえて自分で探さなければいけません。だから語り部が続くと辛いな、しんどいなと思う瞬間があります」
「学校を残してほしい」小学校を震災遺構に
一方で伝承館に就職したことで「震災についてオープンな環境になった」と横山さんはいう。「自分が通った高校や大学は浜通り(※)の人がいないから、震災について話すことができませんでした。しかしここにいると事務所の半分以上は被災者なので、いい意味で気が楽です。話しやすいですし、詮索されることもないですし。お互いの境遇を知っていることは大事ですね」
(※)福島県東部の太平洋沿いの地域
請戸小学校は津波にのまれたが、かろうじて倒壊を免れ2021年に震災遺構となった。横山さんは「校舎を残してほしい」と保存を呼びかけた。
「請戸地区は数軒の建物がかたちを残していたのですが、復興の工事が進むにつれて解体され、道路も無くなりました。だから学校まで無くなると、ここが請戸とさえわからなくなるので、学校を残してほしいと。保存に反対する人は私の周りにはいませんでした。たぶん学校で亡くなった先生や子どもがいなかったからだと思います。もし亡くなっていたら議論は変わったでしょうね」
「原発は無くならない」という友人との壁
志賀風夏さんは高校1年生のときに福島県相馬市で被災した。その後志賀さんは両親とともに鎌倉へ一時避難したが、2か月程度で避難指示が解除され5月には再開した高校に戻ることができた。志賀さんはいう。
「我が家は皆無事で良かったのですが、家族が行方不明な友人もいて、お互いに被災状況は話せない状態でした。だから知らないことで平穏が保たれているという高校生活でしたね」
その後志賀さんは福島大学に進学した。しかし4年生の時に大学を中退して、同じ浜通りにある川内村で職を見つけた。大学を中退したきっかけは、震災に関するある出来事だったと志賀さんはいう。
「1年生のときに『原発は無くならないと思う人とそう思わない人で、それぞれの立場で討論しましょう』という授業があったのです。その際にこれまで友人だった人たちが『原発はどうせ無くならないよね』と言ったことに、すごく壁を感じるようになって。ここは嫌だな、今の状況を脱したいなとだんだん思うようになって、4年生の時に川内村に来ることを決めました」
村外から来た人と地元の人を繋ぐカフェ
川内村は福島県の浜通りの内陸側に位置する。震災後全村避難となったが、翌年には一部地域で帰村が始まり2016年に全域で避難指示が解除された。そのため沿岸部のような急激な人口減はなく、村として子ども子育て政策に力を入れているため、移住者が増えているという。
福島の詩人、草野心平の記念館で働いていた志賀さんが、陶芸家だった父親の古民家でカフェをつくろうと思い立ったのは、「村外から来た人と地元の人を繋ぐにはどうしたらいいだろう」と考えたからだ。
「亡くなった父が古民家を残してくれたのですが、改装してコミュニティースペースとかコワーキングスペースをつくっても、それに関心がある人しか来ないので、『誰でも興味があるのは食べ物だからカフェにしよう』と。村外から来た人には、観光や移住などの気軽な問い合わせ窓口として機能すればいいなあと思いました」
「川内村で何かやりたいので来ました」
去年10月にプレオープンした古民家カフェ「秋風舎」は冬の間はお休みをして、間もなく正式オープンの予定だ。
「地元に落ち着いた感じのカフェが少なかったので、今まで会ったことない方が結構来てくれて。『1人でゆっくり外を見ながら、本読むようなところが欲しかったんです』と言ってくれる人が多かったので、すごく意外で作ってよかったなと」
ほかにも地元のお母さんたちが、ちょっと喋りに立ち寄ることもあったという。
「高校生や大学生が『川内村で何かやりたいんだけど、どうしたらいいかなって思ってとりあえず来てみました』とやってきたり、移住の相談に来る方もいらっしゃいましたね」
「ここが地域のハブになっていけば」
プレオープンでは陶芸教室を行ったり、子どもたちに土壁を塗る作業を手伝ってもらったりした。志賀さんは「ここが地域のハブになっていけばいいな」という。
「今は個人でやっていますが、そのうち行政や学校と一緒に何かできればいいなと思っています。例えば村の方に習うワークショップとか、学校の授業の一環として子どもたちが何か体験できるような場にもしたいです」
葛藤しながらも震災と向き合って生きていく。そして次の世代にその生き方を受け継ぐことが、福島に新たな希望を生み出すはずだ。
【執筆:フジテレビ 解説委員 鈴木款】