ロシアによるウクライナへの軍事侵攻開始から1年が過ぎた。欧米の経済制裁や、プーチン大統領による予備役招集などにより、一部のロシア人の間で「子供には外国人として生きてほしい」という動きが広がっている。ロシアの妊婦たちが出産の地を選んだのは、ロシアから1万4000キロ離れた南米・アルゼンチン。「ロシア人向け出産ツーリズム」が熱を帯びている状況を取材した。

息子には自由な選択をしてほしいと思った

水色と白の縞模様のサッカー・アルゼンチン代表のユニフォームに身を包み、生まれたばかりの息子と街を散歩する、ロシア人のセルゲイ・クズミノクさんと妻のタチアナさん。2人は祖国・ロシアを離れ、2022年9月末にアルゼンチンに到着した。

以前から反政府系メディアでジャーナリストとして活動していたセルゲイさんは、ウクライナ侵攻前から政府を批判し、当局に拘束され暴力を受けた経験もあると話す。このため2014年のロシアによるクリミア併合のころから移住を考えていた。その後結婚し、妻・タチアナさんの妊娠が発覚するころに、2022年2月24日の軍事侵攻を迎えた。

セルゲイ・クズミノクさん:
移住の決断において決定的だったのは、当然、戦争(2022年2月の軍事侵攻)です。お金もあまりないし、妻は妊娠中。移住は大きな一歩だったが、合法的なものでなくてはならないと思った。アルゼンチンでは滞在許可と労働許可がすぐに出ると聞いた。

アルゼンチンに移住後の12月に男の子を出産したタチアナさん
アルゼンチンに移住後の12月に男の子を出産したタチアナさん
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妻・タチアナさんは12月に男の子を出産。2人ともスペイン語はほとんど話せず、通訳の力を借りて子育てをしている。アルゼンチンでは国籍は出生地主義のため、息子は自動的にアルゼンチン国籍となる。アルゼンチン国籍の子を持つ親も、居住権・市民権が取りやすいとされ、セルゲイさん家族もアルゼンチンで暮らすつもりだ。

セルゲイ・クズミノクさん:
私たちは市民権をとる予定です。私たちは息子に良い教育を受けさせたい。そして自由な選択をしてほしいと思った

父親のセルゲイさんは息子に「自由な選択をしてほしい」と語る
父親のセルゲイさんは息子に「自由な選択をしてほしい」と語る

同じ飛行機に33人のロシア人妊婦 3カ月で5800人が入国

アルゼンチンの移民局は地元メディアの取材に対し、「2022年1年間で1万人のロシア人妊婦が入国している。うち5800人の妊婦が過去3か月に入国した」と明かした。2月に入ると、同じ便に33人以上の、妊娠後期のロシア人女性が搭乗していたこともあったといい、完全に「ロシア人出産ブーム」がアルゼンチンで起きている。

世界から非難される軍事侵攻や経済制裁により西側諸国との距離が広がるロシアでは、子供の将来が案じられるため「ロシア人として育ってほしくない」と願う親が増えたと言える。地元メディアには、産院の待合室には、ロシア語で書かれた注意書きも貼られている様子が掲載された。

ロシアのパスポートでビザなしで渡航できる国は、軍事侵攻前から日本などに比べて少なく、87カ国と言われている。日本や欧米諸国に渡航するには観光ビザが必要だが、ウクライナ侵攻以降、EUなどでロシア人に対するビザの発給制限を設ける動きもみられたため、さらに身動きが取りにくくなっている。

そうした中で、アルゼンチンはロシア人にとってビザなしで渡航できる限られた国だ。さらに、前述のとおり出産した子供は自動的に国籍が与えられる。アルゼンチン国民は173カ国にビザなし渡航ができるため、いわば「ロシアより自由の利く」パスポートを子供に与えることが可能になるほか、外国人でも医療が受けやすいという事情もあるようだ。

「ロシアに戻らない」親が急増

私たちは、アルゼンチンでロシア人の移住をサポートするビジネスを営む、キリル・マコヴェーヴ氏に話を聞いた。

アルゼンチンでロシア人の移住サポートをするマコヴェーヴ氏
アルゼンチンでロシア人の移住サポートをするマコヴェーヴ氏

以前から、経済的に余裕のあるロシアの人たちの出産の地としてアメリカ・フロリダ州が人気だったが、トランプ政権が誕生し外国人のビザが取りにくくなった。そのブームはメキシコに移るがメキシコでも規制する動きが出始め、最終的にアルゼンチンでの出産が増えたというのだ。

「ロシア人の海外出産」事情を数年見てきたマコヴェーヴ氏にとっても、今回のウクライナ侵攻開始からの1年で変化があったという。2022年、アルゼンチンでの出産希望は、問い合わせを含めると前年の5倍に膨れ上がったという実感だ。“顧客”が増えただけではない。

キリル・マコヴェーヴ氏:
戦争の前であれば、アルゼンチンで出産した親の9割は、国籍などを取得後、ロシアに戻っていた。しかし現在は、戦争を支持しない人にとってはロシアにとどまることについて、身の危険を感じる人が増えている。軍事侵攻以降、出産を終えてロシアに戻る親は半分以下に減ったと思う。

アルゼンチン当局も“調査”を開始

しかし、前述のとおり、ロシア人の出産が急増している現状は、アルゼンチン国内の一部で疑問視する声も出始めているという。

移民局の幹部は2月、SNSで「ここ数カ月でロシア人の入国が大幅に増加していることがわかったため、調査を開始することにした。350人のロシア人妊婦に話を聞いている」と発信した。しかし「アルゼンチンには、この国に住むことを選択した移民を受け入れる歴史がある」とも述べていて、移民には引き続き寛容である姿勢も強調した。ロシア人移住者が急増する中で、「国籍取得目的」だけの人や、法外な値段を請求するような業者には目を光らせていくというメッセージにも受け取れる。

ウクライナの人々の苦しみが終わらぬまま、世界は再び2月24日を迎えた。私は2022年夏、ウクライナ国内で取材し、軍事侵攻前後にウクライナから隣国ポーランドなどに避難していた女性や子供たちが再び祖国に戻ってきたという家族を何組も見てきた。この1年間で、国内外のウクライナ人が祖国への思いをさらに強くしたが、その一方、戦争に反対するロシア人は、愛する子供に「ロシア人として生きてほしくない」と決意させた1年でもあったということだ。その状況が一日でも終わるように、世界は注視し続けなければいけない。

(取材:FNNニューヨーク支局 ディエゴ・べラスコ/中川真理子)

中川 眞理子
中川 眞理子

“ニュースの主人公”については、温度感を持ってお伝えできればと思います。
社会部警視庁クラブキャップ。
2023年春まで、FNNニューヨーク支局特派員として、米・大統領選、コロナ禍で分断する米国社会、人種問題などを取材。ウクライナ戦争なども現地リポート。
「プライムニュース・イブニング元フィールドキャスター」として全国の災害現場、米朝首脳会談など取材。警視庁、警察庁担当、拉致問題担当、厚労省担当を歴任。