世界的なピアニスト、クリスチャン・ツィメルマン氏が、高松宮殿下記念世界文化賞を受賞した。生まれる前から音楽に接し、あのバーンスタイン氏に「100歳の誕生日に祝いの共演を」と言わしめた音楽家人生を語った。

建築部門で世界文化賞を受賞したSANAAのお二人と
建築部門で世界文化賞を受賞したSANAAのお二人と
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ハイハイしながら待った父の演奏

Q・5歳の頃、父上からピアノを学んだのが音楽との出会いなのですか?

私は母のお腹の中にいたときから音楽と出会っていました。元々音楽家だった父は、生活のこともあり、建設局で機械や建物の設計をし、その分野でも才能を発揮していましたが、やはり一番好きだったのは音楽で、毎日、仕事から帰って、うちで音楽好きの同僚と演奏をしていました。私は朝からずっとハイハイしながら、3時に父親が帰宅し、演奏するのを楽しみに待っていました。

5歳の頃に父からピアノを教えてもらい、自分で曲を書くようにもなり、6歳の時にはポーランドのテレビ局に招かれて、自分の作品を3曲披露したこともあります。私の初めてのコンサートは父とやりました。1962年12月6日に、父が勤めいた工場で、父と二人でクリスマス曲の連弾をしました。

愛用のピアノと バーゼルにて 2022年 ©️ BartekBarczyk.Art
愛用のピアノと バーゼルにて 2022年 ©️ BartekBarczyk.Art

こうして音楽に囲まれて育ったので、初めて友達の家に遊びに行ったときに、その家にピアノがなくて「どうやって生きていくのだ」と思ったぐらいビックリしました。うちでは、ピアノはベッドやテーブルと同じぐらい、生活に欠かせないものだったのです。

Q・1975年のショパン・コンクール優勝時(18歳)の心境を教えてください。優勝後、人気に溺れてしまうピアニストもいますが、何を心がけてキャリアを築いてきましたか?

私はコンクールのために演奏したことはありません。聴衆のために演奏しているだけです。この時は、聴衆のみなさんが、コンクールという枠から解放され、心に響くステキな音楽を聴くことができたら、と思いました。47年前のことですが、そのときも信じられませんでしたし、いまだに信じられません。

1975年「ショパン国際ピアノコンクール」で優勝
1975年「ショパン国際ピアノコンクール」で優勝

優勝後は、大きなキャリアを積もうとはせず、小さくすることばかり考えていました。というのも、突然、色々な人が、私がノーと言えないような協力を頼んできたからです。共産主義の時代に、党のメンバーが、私の本意ではないコンサートに私を引き込もうとしたり、ある時期、国から逃げ出さなければならなかったこともありました。優勝者には、そういう問題も起こるので、私にとっては、コンクールの後、自分を取り戻すことが最大の課題でした。

バーンスタインから「100歳の誕生日に一緒に演奏してくれないか?」

Q・バーンスタイン生誕100周年の2018年には、バーンスタインの交響曲第2番「不安の時代」を多くの主要オーケストラと世界中で共演しました。

バーンスタインは、私が人生で出会った最も興味深い音楽家の一人です。15年以上も一緒に演奏していました。ストラヴィンスキーから始め、その後、ベートーヴェンとブラームスの協奏曲を一緒に演奏し、ヨーロッパで一緒にツアーをしました。そして、ベートーヴェンの協奏曲のプロジェクトが始まりました。

バーンスタイン氏と 1983年 Courtesy of Krystian Zimerman
バーンスタイン氏と 1983年 Courtesy of Krystian Zimerman

バーンスタイン70歳の誕生日の少し前に「私の交響曲第2番は知っていますか」と聞いてきました。私が「弾いたことがあります」と答えると、彼は「すぐに演奏しよう」と。そして、私は彼と一緒にこの交響曲をニューヨークで7回演奏し、エイブリー・フィッシャー・ホールでは彼の誕生日を祝うために演奏しました。バーンスタイン氏は「私の100歳の誕生日にこの曲を一緒に演奏してくれないか」と言ってきたので「はい、もちろん」と答えましたが、その2年後(1990年)に彼は亡くなってしまったのです。

あっという間に時間が過ぎて、2015年頃になって突然、『ちょっと待てよ、2018年はバーンスタインの100歳の誕生日だ。これを祝わなければならない』と気づいたのです。

「エゴが全くない」小澤征爾

Q・他の指揮者からはどんな影響を受けましたか?

カラヤン、コンドラシン、ジュリーニ、ブーレーズ、どの指揮者も私の人生を変えました。最初に共演した偉大な指揮者はカルロ・マリア・ジュリーニでした。小澤征爾とのコラボレーションは最も素晴らしいもののひとつでした。エゴがまったくない、ただ音楽に集中し、音楽に関するあらゆる問題を解決する人間に出会いました。車の中でどこに座るかとか、そういうことはまったく考えていません。彼とはアメリカや日本で何度もコンサートをしました。

カラヤン氏と 1980年 Courtesy of Krystian Zimerman
カラヤン氏と 1980年 Courtesy of Krystian Zimerman

また、まったく別の角度から重要だったのは、キリル・コンドラシンと共演したことです。彼はロシアの偉大な指揮者の一人でしたが、1976年には彼が共産党の高官だったため、私は共演を断っていました。それが、突然、オランダの私のコンサート会場に聴衆としてやってきて、「君が僕と演奏したくないと思っていたことは知っている」と言ってきたのです。彼は偉大な指揮者だったので、私は恥ずかしくて、真っ赤になり、アムステルダムでコンサートをする約束をしました。

「防弾チョッキは拒否した」亡命指揮者との共演

コンサートの3日前、カラヤンとベルリンにいたときに、アムステルダムから「コンドラシンが西側に亡命した」という知らせを受けました。彼は「ロシアには帰らないから、コンサートに来てくれないか」と言いました。ポーランド大使館からは「このコンサートを避けたほうがいい」と連絡があり、私が病気であるという情報すら流されていましたが、私はこれを無視して、小さいホテルにチェックインして、電車に乗りました。

コンサート当日の朝、アムステルダムに着いた時には、すでにコンサートをキャンセルするには遅すぎましたし、コンドラシンは防弾チョッキを着て、コンサートをやりました。彼らは私にも防弾チョッキをくれようとしましたが、拒否しました。このコンサートは録音され、若い作曲家、若い指揮者を支援するためのチャリティー・ギフトとして、オランダのコンドラシン財団によって発行されました。

コンサートホールが作品の生死を決する

愛用のピアノと バーゼルにて 2022年 ©️ BartekBarczyk.Art
愛用のピアノと バーゼルにて 2022年 ©️ BartekBarczyk.Art

Q・自分でピアノを組み立て、調律するきっかけになったのは学生時代の経験からですか?

1950年、60年代のポーランドはとても貧しい国でした。戦前から持っていた楽器は、ほとんどがスタインウェイ、ベヒシュタイン、ベーゼンドルファーなどでした。スペアパーツを入手することも、交換することもできませんでした。ですから、実質的には、自分でやるしかなかったです。ピアノという楽器は信じられないほど複雑で、ちょっとしたことを変えるだけで、突然、別の楽器になってしまうので、いつも楽しく仕事をしていました。学校にあった50以上の楽器を担当していた7人の調律師のグループから、楽器のメンテナンスの仕方や修理の仕方を学びました。

Q・だから、自分のピアノで世界中を回るんですね。ホールの音響に気を配り、完璧な音を出そうとする。なぜ、そこまで徹底させるのでしょうか?

コンサートホールには、自分の作品に命が宿り、信じられないくらい素晴らしいものになる場所もあれば、何をやってもその夜はアーティストではなくなってしまう場所もあるのです。音響の天才、豊田泰久氏と知り合ったことで、私の脳細胞は刺激を受けて音響の観点からも、ピアノ製作の研究を進めることができました。

現在では、手を3回叩けば十分で、低音域、中音域、高音域がわかり、そのコンサートホールでピアノをどう調整すればいいかわかるので、鍵盤、あるいはピアノ一台を持ち運べば、30分から1時間で音響に合わせることができるようになりました

取材:日本美術協会・世界文化賞取材班

授賞式後の祝宴にて豊田泰久氏と 
授賞式後の祝宴にて豊田泰久氏と 

ツィメルマンさんは、今回の受賞について「音楽にはノーベル賞はないので、この世界文化賞が最も権威のある賞です。その賞を私がいただけたのは信じられないことです」とその喜びをかみしめていました。

勝川英子
勝川英子

フジテレビ国際局海外広報担当。
報道時代にパリ支局長を経験。
2016年にフランスの国家功労勲章を受章。
2003年からフランス国際観光アドバイザー。
幼少期を過ごしたフランスをこよなく愛し、”日本とフランスの懸け橋になる”が夢。